雨と子猫と愛しき人と
鉛色の厚い雲が空一面を覆い、陽の光を遮っていた。雲からは大粒の雨が降り注ぎ、アスファルトの地面の上で弾けていく。
「まいったねこれは」
駅前のロータリー。
天気の回復を見込めない空を見上げながら、リスティは溜息混じりに呟いた。
今日の天気は曇りのち雨。午後からは広い範囲で雨になるでしょう。と、今朝見たテレビのお天気お姉さんの言葉を思い出す。
まったく、ものの見事に的中だよお姉さん。
目の前では赤や青、黒に白。または透明な傘が次々と通り過ぎていくが、リスティがその中に加わることは無い。何故なら彼女の手にはその為のアイテムである傘が無いからだ。
売店の傘も売り切れ。そしてこういうときに限って寮の皆は出掛けていて、誰も迎えに来てくれない。今日の運勢ってそんなに悪かったっけ? それともこれがマーフィーの法則ってやつか?
「まったく、こうなったのもお前のせいだぞ」
リスティは自分の――ジャケットの下に入れられた――左手に向かって文句を言った。その手には、傘の代わりに灰褐色の子猫が一匹。
子猫は手の中でもぞもぞと動いてリスティを見上げた。
「みぃ」
まだ歯もちゃんと生え揃っていない小さな口から声を出す。
(さてどうしたものかな?)
状況から考えを巡らせる。タクシーを捕まえて帰るのが最も良い手段だとは思うが、今月は結構ピンチなので出来ればそれは最終手段にしたい。近くの店まで走って傘を買う手もあるが――残念ながら見える範囲にそれらしい店は見当たらない。
――いっそのこと能力を使ってしまうか?
一瞬そんな考えが頭に浮かぶが、こんな人目の多い中でそんなことできるわけもない。セロじゃあるまいし、皆の注目を集めて驚かす趣味は無い。
「どうするかなー?」
雨で次第に気温が低くなる。はっきり言って寒い。左手の中の子猫も心なしか震えているような気がする。今すぐ帰りたい。しかし帰る手段が思いつかない。
困り果てる彼女に救いの手が差し出されたのは、それから間も無くのこと。
「リスティさん?」
背中から突然声を掛けられた。「んん?」と怪訝に振り返った彼女が目にしたのは、
「恭也……」
仕事パートナーで想いを寄せる青年、高町恭也の姿だった。
「偶然ですね。お仕事の帰りですか?」
そう問い掛ける恭也を見て、リスティは口許ににやりと笑みを浮かべた。
あっ、ちょっと嫌な予感がする。
そう恭也が思ったか思わないかの内にリスティは彼の傍により、自分の右腕を彼の腕に絡めた。
「な、何を――」突然の行為に驚く恭也に言う。
「恭也、相合傘をしよう」
♪
黒い大きめな傘の下、二人は腕を組んで歩いていた。雨は相変わらず降り続いており、黒い生地に当たっては弾けて飛んでいる。
「傘を持たずに出掛けたんですか?」
驚きと呆れの入り混じったような恭也の言い方に、リスティは心外だとばかりに不機嫌な顔をした。
「ほんのちょっとの用だったんだよ。だから降り出す前に帰れると思ってたんだけど……ちょっと不測の事態が起きてね」
懐に入れた自分の左手、その上で、興味深そうに丸い双眸を向けてくる子猫を見下ろす。まったく呑気なものだ。コイツのせいで僕が雨の中を歩いているというのに。
「そういえばその猫、一体どうしたんですか?」
「路地裏で鳴いてるのを見つけたんだよ。段ボール箱の中に入っててさ、多分誰かが捨てたんだと思う。――で、連れて帰るかどうか考えている間に雨に降られてね」
「そうだったんですか……」
捨てられた≠ニいう言葉に恭也は一瞬嫌な顔をするものの、すぐにその表情を戻した。そしてリスティに向かって小さく笑みを浮かべる。
「優しいんですね、リスティさん」
「はぁ?」きょとんとリスティは瞳を瞬かせる。
「何言ってるんだよ。僕はいつだって優しいじゃないか」
特に恭也にはね、と最後に冗談ぽく小さく笑って付け足し、リスティは恭也の身体に寄り添った。
「あの、少し歩き難いのですが……」
「こうしないと僕が濡れちゃうじゃないか。もし風邪を引いたらどうするんだ? 恭也が付きっ切りで看病してくれるのかい? ま、それならそれで僕は全然構わないけどね」
「…………」
恭也は小さく溜息を零しただけで反論は一切しなかった。どうにもこの人には勝てる気がしない。
いつもよりも大分遅い足取りであったが、二人と一匹はさざなみ女子寮へと辿り着いた。
「それじゃあ俺は」
そう言って踵を返そうとした恭也だったが、不意に腕を強く掴まれた。見ればリスティが何故か厳しい眼で恭也を見据えている。
「ちょい待ち。まさか僕にお礼もさせず帰るつもりじゃないだろうね?」
「そんないいですよ、お礼なんて」
「それならそれで別にいいさ。でもお茶くらいは付き合ってくれてもいいだろ? 今家に誰もいなくて寂しいんだよ。
――ほら、お前も一緒にお願いしろ」
リスティは子猫を恭也の顔の前まで抱え上げた。それに合わせたかのように子猫も「みぃ」と小さく鳴く。
「な? こいつも付き合えって言ってる」
子猫の脇からリスティは笑顔を覗かせる。
「いつから猫の言葉が解るようになったんですか……」
呆れ気味に嘆息する恭也に「僕を甘くみちゃいけないよ」とリスティはからかうように答えた。
寮の扉を開け、
「さっ、こんなところでいつまでも立っていたら本当に風邪を引くよ。入った入った」
「分かりました。分かりましたからそんなに押さないで下さい」
うきうきと楽しそうに恭也の背中を押して、リスティはさざなみ寮へと帰った。
♪
「それじゃあ僕は着替えてくるから、その間にコイツにミルクでもやっといてくれ」
そう言ってリスティは子猫を恭也に託した。次いで子猫に向かってしっかりと言い聞かせる。
「恭也が僕の着替えを覗かないようしっかり見張っているんだぞ」
「覗きませんよっ」
即座に否定する恭也だが、命じられた子猫は彼の意志とは関係なく「みゃっ」と力強く返事をした。子猫の返事に満足そうに頷き、「それじゃあちょっと待っててくれ」とリスティは二階へと上がっていった。
さざなみ女子寮では何匹かの猫を飼っている。その為常に猫用の餌やミルクが充分に揃っており、ここ最近何度もここを訪れている恭也は勝手知った感じで子猫のミルクを用意することが出来た。
リスティが着替えを終えて下りて来たのは、子猫がミルクを飲み終えてソファに座る恭也の足にじゃれているときだった。
「今飲み物を持ってくるから」
お構いなく、と答える恭也に軽く手を振って、リスティはリビングを抜けてキッチンへと消えた。ちなみに彼女の服装は、上はジャケットを脱いでYシャツ一枚。下はタイトスカートからスラックスに変わっている。
冷蔵庫を開いて中を物色しながらリビングの恭也に尋ねる。
「恭也ー、ビールとウィスキーとワインと焼酎どれがいい? あっ、あと缶チューもあるけどー?」
ここの冷蔵庫にはアルコールしかないのだろうか?
恭也は片手で眉間を押さえて一度溜息を零してから、「お茶でお願いします」と答えた。
「何だよ付き合い悪いなー。折角なんだから一緒に飲めばいいじゃないか」
少し離れた場所からリスティの不満気な声が聞こえて来る。
いつもの晩酌程度ならばまだ付き合う気にはなるが、流石に昼間から酒を飲む気にはなれない。元々アルコール類はあまり好きではないことだし、今回は遠慮したいところだ。
「酔った勢いで僕をどうこうしてもいいんだよ?」
…………。まさかもう飲んでいるんじゃないだろうな?
恭也はもう一度溜息をつき、やはりもう一度お茶をリクエストした。
♪
自分の缶ビールと恭也のリクエストであるお茶のペットボトルを持って、リスティはリビングへと戻ってきた。缶ビールの蓋は開いており、既にいくらか中身が減っていた。恭也の懸念は当たっていたようだ。
「はい。生憎と冷たいのしかないけど勘弁してよ」
「ありがとうございます」
礼を言って恭也はお茶を受け取った。キャップを回し、中身を一口飲む。膝の上ではお腹一杯になったうえに遊び疲れた子猫が眠っており、恭也はその無邪気な様子に少しだけ頬を緩めた。
「コイツ……さっき会ったばかりなのになんて甘え上手なんだ」
あの恭也を和ませるとは只者ではない。子猫に対して奇妙な嫉妬心を燃やし、リスティは負けていられないと恭也の隣へ腰を下ろした。残っていたビールを一気に飲み干し、空になった缶をテーブルの上に置く。
「リスティさん?」
不思議そうな顔をする恭也を一度上目遣いで見上げ、リスティはおもむろに彼の肩へと寄り掛かった。
「なっ、何ですかいきなり」
リスティの突然の行動に驚き恭也は思わず膝を立たせ掛けたが、膝の上で眠っている子猫のことを思い出して動きを止めた。
むっと、リスティは不機嫌そうに恭也を睨む。
「何だよ、いいじゃないかちょっとくらい。それともそいつは良くて僕は駄目なのか?」
「いえその……、駄目というわけでは無いのですが……」
「じゃあいいじゃないか。僕だってたまにはこういう風に甘えたいときもあるんだよ」
そう言って更に体を恭也に密着させる。途端、恭也は緊張に体を強張らせた。リスティとしてはここで肩に手を回してくれればなー、とか思うのだが、今の彼にそれを求めるのはどうも無理なようだ。
(まあでも、これはこれでいいか)
こうして彼と一緒にいられるだけでも幸せなのだから、これ以上を望むのは少し欲張りというものだろう。
「ありがとうなチビ助」
恭也に寄り掛かったまま眠っている子猫に向かって礼を言う。
気紛れで拾った子猫。
コイツのせいで雨に降られてしまったが、そのおかげで今恭也とこうしていられる。案外コイツは自分にとっての幸運の招き猫なのかもしれない。
「今何か言いましたか?」
「ん? いやなに、そういえば恭也への礼がまだだと思ってさ」
「ですから」
いいですよお礼なんて、と答えようとしたそのとき。
いつの間にか近づいたリスティの顔が、彼女の唇が、恭也の頬に触れていた。
「なっ」
恭也が驚いて振り返る少し前にリスティは彼の頬から唇を離した。
「いっ、いきなり何ですか!?」
顔を真っ赤にしながら尋ねる恭也にリスティはくすくすと笑って答える。
「だから言っただろ? お礼さ。傘に入れてくれたね」
だからってこんなことしなくても……。
喜んでいいのか怒っていいのかそれとも呆れるべきか。恭也は心中複雑な想いだ。
「ああ、一応言っておくけど」
リスティは思い出したように言うと、
「今のは君だけにしかしない、特別なお礼だからね」
恭也に向かって愛らしいウィンクをした。
「それは……えっと……その…………」
「言葉通りの意味さ」
恥ずかしそうに顔を赤くしている恭也の腕にしっかりと抱き付いて、リスティは幸せそうに微笑んだ。
窓の外ではまだ雨が降り続いている。
二人と一匹の時間も今暫く続くことになるだろう。
〈了〉
どうも、また書いてしまいました天田ひでおです。
今回は前回よりもラヴ度をUPさせてお送りしてみました。UPしていると思います。させたつもりです。きっとそうです。僕はそう信じています(マテ
まあそんなことはさて置いて(ぉ)今回のSSは何日か前の雨の日に思いつきました。雨に打たれるリスティさんの姿(何故か猫を抱いている)が頭にふと浮かんで、それを題材に書きました。
ただ雨に打たれている姿だと、切なげな、悲しげなイメージが付いてしまいそうなのでそこは変えさせて頂きました。
投票もついに後半戦、最後までこの二人への応援をどうぞ宜しくお願いしますですw
魔術師のお礼状
うん、やっぱリスティは良いですね。
大人のお姉さんと物慣れない少年って感じで。
実際はそんなに年齢離れてないですし、実際はリスティの方もそれほど慣れてないのですが、その内面がまたなんともいえず良いですね。
思わず赤面するようなラブラブショーではなく、ほのぼのとしちゃう感じが、実にとらハっぽいですし。
『捨て猫』というのが、リスティの過去を知っていると意味深で、彼女がこの子を放って置けなかったってのも、なるほどなって感じです。
結論が出ないのももやもやと言うかヤキモキと言うか、焦らされちゃって困っちゃう☆