3月の13日、珍しく衛宮家にはあまり人が居なかった。
桜と藤ねえは弓道部、ライダーはアルバイト、凛とセイバーは遠坂家に行っているし、イリヤは城に戻っていた。
つまり、現在この広い屋敷に居るのはエミヤシロウだけだった。
にも拘らず、いつも和やかな空気に包まれた衛宮家の居間だが、今日は物凄い緊迫感に包まれていた。
そう、あれは焼肉戦争で獅子と虎が一触即発の危機にまで陥って以来の事態だろう。
「頼む、この通りだ」
苦虫を100匹くらい噛み潰した苦渋の表情からも、士郎の目の前で頭を下げているエミヤシロウの苦衷は察することが出来る。
反発しあったかつての自分に、しかも殺したいほど憎んでいたであろう男、衛宮士郎に頭を下げるのは、この弓兵にとってどれほどの屈辱かは言うまでもないだろう。
「だから理由を言えって」
いきなり「今日一日だけ、ここに泊めて欲しい」とだけ言われては、士郎でなくても理由を知りたがるのは当然だろう。
しかし、アーチャーは先ほどから頭を下げ続けるだけで、理由を言おうとはしない。
それが、士郎を困惑させた。
「話しにならないな」
溜息をつきながらも、士郎はばっさりと弓兵の希望を切って捨てた。
「無論、ただで、とは言わん」
す・・・と士郎の前に差し出されたのは、茶色いお菓子だった。
「喰ってみろ」
訳がわからずに首をかしげている士郎に食べるように促した。
「こ・・・これは!!」
「ザッハトルテというウィーンの由緒あるチョコレートケーキだ」
ニヤリと勝ち誇ったアーチャーの笑みが癪にさわる。
が、悔しいが、この旨みの前にはぐうの音も出ない。
こってりとした濃厚な味わいながら、決して甘すぎない、上質な甘みが旨みと僅かな苦味とともに口の上で奏でるハーモニー。
どうだ?
そんな問う視線に、つい目を逸らした。
泳いだ士郎の視線の先の台所には、明日のホワイトデーのためのお手製チョコブラウニーがある。
先ほどまで十分満足できる出来であったはずのそれが、アーチャーのお菓子を食べた瞬間ひどくつまらない物に思えた。
「今の貴様には、まだこの味は出せまい」
アーチャーの記憶が確かなら、この時期の衛宮士郎は、洋食や中華、お菓子などは和食に比べて苦手としていたはずだ。
悔しそうに俯くかつての自分を見て、それを確信する。
「そちらがこちらの願いを受け入れてくれるのならば、これを貴様が必要とする分だけ作ろうじゃないか」
それは、普通ならば考えるまでも無く飛びついてしまうほど、魅力的な提案。
これほど美味しいザッハトルテなど、お店でもそうそう味わえる物ではない。
皆が喜ぶ顔が目に浮かぶ。
「いや、ダメだ」
しかし、それでは意味が無い。
いろいろあったバレンタインのお返しだ。
どれだけ拙くてもセイバーに、凛に、桜に、カレンに、イリヤに、セラとリズに、心を込めたお返しを贈りたいじゃないか。
バレンタインの日、一人一人に改めて礼を伝えた時に誓ったことだ。
「例えどれだけ拙くても、皆に気持ちが籠もった、俺が自分で作ったお返しを贈りたい!」
例えその考えが歪であっても、
その理想は、―――――――――――――――間違いなんかじゃないんだから。
「ふ、そういうと思ったぞ、衛宮士郎。
だから、貴様にレシピを渡し、望むというのならば調理方法を伝授しようじゃないか」
緊迫した空気が流れる。
勝利を確信したかのように笑みを浮かべる弓兵と、己の心の葛藤に向かい合う正義の味方。
そして、コクリと頷く二人の男達。
ここに商談は成立した。
「ただし、だ。
私の指導は厳しい物であると覚悟してもらおう」
早速、ピンクのエプロンを締め、台所に向かう背中はこう問うていた。
『――――――ついてこれるか。』
強く歯をかみ締めて立ち上がる。
必ず、その背中に追いつき、追い越してやると誓いながら。
それぞれのValentine
番外編
その後のホワイトデー
春の装いを感じさせる冬木の町。
一月前の橋の上とは打って変わって、暖かい日差しに見守られながら、交差点のバス停でバスを待つ二人。
「やはり、その服を着ている君が、一番美しく見えるな」
「私が美しい・・・ですか?その、お世辞でも嬉しいです、ありがとう。アーチャー」
「ん?何か言ったか」
「いえ、そのあなたは、今日は随分とラフな格好をしてるんですね」
セイバーの言うとおり、アーチャーからのリクエストに従って、凛から貰ったお気に入りのいつもの服を着ているセイバーに対して、今日のアーチャーの格好はジーンズにロンティーと赤いパーカーを羽織っていて、ラフな服装をしていた。
「ん、やっぱり似合わないか?」
ソワソワと自分の服装をチェックするアーチャーは、何だか微笑ましくて、いつもの皮肉気な様子は億尾にも出さない。
「いえ、よく似合っていますよ」
バレンタインから一月、何度かお茶をしたり、食事を振舞われたりということは有ったが、こうしてデートに誘われたのは初めてだったりする。
ましてや、何故か昨日凛とともに遠坂邸から戻ると、アーチャーが衛宮家に居たり、泊まっていたアーチャーと仲良く朝食を取り、並んで家を出るなんていう、想定外の事態のオンパレードだったのだから緊張するなという方が無理って物だ。
とりあえず、そんなこんなで、バスを待つ間にやり取りを重ねる内に、ようやく緊張から少し解き放たれたセイバーだった。
バスに乗り込み、何故か先頭に乗ろうとするセイバーを連れて、一番後ろの座席に席を下ろす。
あと、一時間前ならば、通勤通学にごった返すこの新都行きのバスも、今は立っている乗客が居ないくらい空いていた。
窓の外の流れる景色を眺めるセイバーの表情は柔らかく、そこに聖杯を巡る神話の夜を、共に駆け抜けたころの張り詰めた空気はひどく薄れていた。
彼女が神がかり的な美しい容姿であることを除けば、何処にでも居る年頃の少女にしか見えないくらいに。
それに感慨を感じながら、車内を見渡す。
英霊として冬木を訪れてからは利用していないが、かつては幾度も利用したであろうバス。
利用していたこと、バスが通っていたことは記録している。
が、そこには何の感慨も湧かない。
『あの時』と同じ理由で、同じ場所に座り、同じ人と乗っているのに、記憶としては擦り切れ磨耗してしまっているようだった。
自らが生きた時代から遥かな時を越えた世界、しかも海を越えた異国で日常に馴染む彼女。
自らが生きた時代の、しかも懐かしい故郷での日常からすら、遠く乖離し、浮き上がった自分。
それでも、大切にしたい記憶があり、取り戻したい物がある。
そのために、わざわざ
「アーチャー、新都につきましたが、降りないのですか?」
セイバーの声に周りを見渡すと、元々少なかったバスの乗客が、自分とセイバーを除いて誰も居なくなっていた。
自分の思考に没頭し過ぎていたらしい。
「すまない」
慌てて新都の駅前に降りる。
詫びるアーチャーにセイバーは堪えきれない様に噴出す。
罰が悪そうに苦笑するアーチャーに、柔らかく微笑みを向けている。
「貴方らしくないですね、昨晩は、また一人で見張りでもしていたのですか?」
「なに、君の可憐さに魅入られていただけさ」
そんなアーチャーの切り返しに、セイバーの方がボンッと音が立つくらいに赤面し、口をパクパクさせている。
「ところで、セイバー、何処か行きたいところはあるか?」
そんなアーチャーの問い掛けに、未だ熱を上げたままの頭で、必死に首を横に振って答える。
「そうか、では、適当に周ってみることにしよう」
アーチャーがすっと手を差し出し、セイバーの手を握る。
「ア、ア、アーチャー・・・その・・・」
どうした?とでも言わんばかりの顔を向けるアーチャーに、「その、手を繋がなくても・・・」なんて、ゴニョゴニョと声を上げるが、雑踏にかき消されて届かない。
「ほら、昼前とはいえこの辺りは混雑してるからな、離れないように早く移動するとしよう」
照れ臭くて火を噴きそうな顔を必死で冷まそうと、一生懸命前を行くアーチャーを追いかける。
セイバーのマスターである少年よりも、頭一つ分以上優にある彼の姿は、その髪の色と相まって、この人ごみの中でも決して見失うことは無い。
はずなのに・・・。
赤い丘に一人翔けていってしまう姿を幻視した。
無意識に繋いだ手を強く握る。
「どうしたセイバー?」
セイバーが離れてしまいそうになったのかと、歩みを止め、後ろを振り向く。
「なんでもありません」
「そうか」
クスリと笑みが漏れる。
何でも無いと言っているのに、気遣い気に歩速を緩め、ゆっくりと歩くアーチャーの優しさに頬が緩んでしまう。
「セイバー、ここで少し休んでいくか?」
「いえ、全然休息の必要はありませんけど?」
「そうか、だが、すまない、私が少しくたびれてしまったみたいだ。
何と言ってもまさか、ボーリング8ゲームもやると、なぁ・・・。」
「・・・申し訳ありません」
シュンと項垂れてしまう。
アーチャーに負けたのが悔しくて、再勝負再勝負と続ける内に8ゲームも続けてしまったのだ。
「本当に君は、昔から負けず嫌いだったからなぁ」
アーチャーが笑いをかみ殺し呟いた言葉に、思わず反応してしまう。
「どれ、冷たい物でも買って来るから待っててくれ」
そう言って歩み去る背中を見つめる。
「昔・・・とは・・・」
磨耗したと言っていた。
思い出など、記憶など、擦り切れてしまった、と。
捩れて、捻くれて、壊れた果てた、それが今の自分だと。
この身は、衛宮士郎の残骸でしかない、そう寂しそうに語った彼を思わず抱き締めたのは、ちょうど一月前のことだった。
でも、今、アーチャーは何と言った?
昔から負けず嫌いだった、と自分のことを評した。
自分が負けず嫌いかどうかは、後できっちり話をつける必要があるとして、
ならば、今の発言は
考えてみれば、そもそも今日の彼は少し
今日のデートは、午前中、とりあえず目に入ったブティックでウインドウショッピングをして、ボーリングを楽しんだ。
計画性の具現のように几帳面な彼が、行先も決めずにデートをするなどありえるのだろうか?
これでは、まるでシロウのようではないか。
何かに気がつけそうなのに、思考がまとまらない。
それもこれも、引切り無しに突き刺さる、好奇の視線のせいだ。
先ほどまでは全然気にもならなかったのに。
「よ!」
突然かけられた声に、顔を上げてみれば、派手なアロハに身を包んだ槍兵が立っていた。
「どうした、坊主は一緒じゃないのか?」
「そちらこそ、こんな所で会うなんて珍しいですね」
「ああ、今日はデートだ」
何か答えようとする前に「お待たせしました」と、セイバーも見知った少女がランサーに駆け寄ってきた。
「アヤコではないですか」
「え!?セイバーさん!?」
「ってことは、まさかランサーのデートの相手って・・・」
「そんな、デートとかじゃなくてですね・・・」
照れる綾子に、照れるな照れるなと、からかい話を続ける槍兵。
綾子の様子を見るに、満更でもないらしいことは、セイバーでも理解できた。
「そっちも坊主とデートか?」
「え、衛宮が居るの?やだ、この格好見られたら恥ずかしいな」
珍しく制服以外のスカートを着ている。
やはり、綾子のランサーへの感情は特別な物があるようだと確信した。
今日はアーチャーが喜んでくれる格好をしたい、そう凛に相談し、昨日は一日悩んでいただけに、綾子の気持ちはよく理解できた。
もっとも、セイバー自身の悩みは、アーチャーからのリクエストもあり、無用となったわけだが。
大切な人と出かけるために、着飾りたい。
騎士として生きてきた時代には、想像もつかないような考えだ。
でも、今のセイバーには、綾子の気持ちが痛いほど理解できた。
「アヤコ、あなたは元々美しいのだから、よく似合っています。」
いつものジーパンではなく、今日は黒のロングスカートに、グレーのタートルネックのスプリングセーターを着ているが、元々スタイルが良い綾子だけに、このシックな服装は、お世辞ではなくよく似合っていた。
「ねえ、ランサー?」
「ああ、アヤコは美人だし、大人っぽいからな、何を着てても似合うと思うぜ」
その言葉に、頬をバラ色に染め、微笑を返す。
そんな綾子は、セイバーから見てもとても魅力的に見える。
「おい!」
「衛宮?」
褒められてもやっぱり恥ずかしいのか、知り合いの声に敏感に反応してしまう綾子だった。
しかし、振り向いた綾子の前に居るのは、士郎とは別人としか思えない容姿の男性だった。
「ランサー、デート中に他の女性に声をかけるとは、君は本当に節操が無いな」
その聞き覚えのある、呆れたような声にランサーが振り向くと、予想通りアーチャーが立っていた。
「セイバー、思ったより自販機が遠くてな、待たせてすまない」
そう言ってランサーとセイバーの間に割って入った。
「なんだ、セイバーの相手は、坊主じゃなくてお前さんだったのか」
綾子は、先ほどの士郎と勘違いしたことに、不思議そうに首を傾げていた。
「あれ、フィーーーーーーーーッシュ!!のオジサンだ」
そんな綾子の影から、女の子がアーチャーを指差している。
ちなみに、フィーッシュ!!の意味が分からない綾子とセイバーは首をかしげている。
「そうだな、フィッッシュ!!の『オジサン』の邪魔しちゃ悪いから行くか、綾子、ミミ」
綾子に対し取り繕ってくれているあたり、ランサーは本当に天性の兄貴肌だ。
もっともオジサンを強調され、ちょっとピクッと来ているアーチャーは複雑そうで、それを尻目に、ランサーはからかって遊んでいるのもあるのか、とても楽しげだ。
「デートというよりは夫婦みたいですね」
ランサーと綾子に手を引かれ、間にミミちゃんが並んで歩くさまは、確かに若夫婦のお散歩に見える。
「そ、そんな、夫婦だなんて・・・」
「そうだぜ、セイバー、子ども扱いしたら失礼だぜ」
顔を真っ赤に染める綾子を尻目に、ランサーがチッチッと指を振る。
「綾子は言うまでも無く美人だけどな、こっちの嬢ちゃんだって負けてないぜ。
今日はこの美少女二人と、ホワイトデーのお返しでダブルデートさ」
なあ、ミミ。なんて、子ども扱いにプクっと頬を膨らませているミミの頭を撫でながら、セイバーにニヤリと笑いかける。
「そうですね、失言でした」
そう言って律儀にミミちゃんに詫びる。
「ううん、いいよ、お姉ちゃん」
ランサーのレディ扱いに機嫌を良くしたのか、楽しそうに3人はまた町の中に消えていった。
「バイバイ、お人形さんみたいなお姉ちゃんと、フィッシュ!!のオジちゃん」
と、最後に振り返り手を振るミミちゃんに、アーチャーも憮然としながらも手を振り返した。
セイバーがこらえきれずに笑ってしまうくらい、なんともいえない表情だった。
「む、なにか言いたそうじゃないか、セイバー」
「いえ、何でもありません」
何でもないと否定しながらも、笑いを一生懸命噛み殺しているのは明白だ。
フンと憮然としながら、セイバーにアイスティーを投げて寄越す。
そして、何処か照れ臭そうに、鼻を鳴らしそっぽを向いてしまう。
そんな子供っぽい仕草に、セイバーの表情は益々笑いの色を濃くしていく。
「ふん、なら、これは私が一人でお前達にやるからな」
アーチャーの周りに鳩が集まってくる。
よく見るとアーチャーが鳩の餌を撒いているらしい。
白銀の髪と浅黒い肌、そして赤いパーカーと白い鳩達。
「こら、それは餌ではないぞ」
暖かい日差しを受けたアーチャーの髪は、キラキラと輝き、鳩達の興味を引いたらしく、突かれていた。
苦笑しているその表情は、飾り気のない、人目を気にしない彼が生来持って生まれた優しい顔で、セイバーの良く見知った、彼であって彼でない少年の表情と面影が重なる。
鳩と戯れるアーチャーは、ひどく楽しそうだ。
「ずるいですよ、アーチャー、私にも分けてください」
セイバーの方にチラリと視線を投げかけ、聞こえないとでも言うように、鳩の方に向き直ってしまう。
「アーチャー?」
彼のすぐ横に並び立つ。
フイ、とセイバーから視線を外す。
「怒っているのですか?」
正面に回って、顔を覗き込む。
「いやいや、全然怒ってなぞ居ないさ」
「では、私にもそれを分けてください」
鳩の餌に手を伸ばす。
すいっと、避ける。
手を伸ばす、また避ける。
繰り返していく内に、とうとうアーチャーが自らの腕を一杯に伸ばし、頭上に掲げる形になった。
「アーチャー・・・」
ニマリと悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
「ほら、欲しい物はここにある。欲しければ取りたまえ」
勿論、長身のアーチャーが一杯に手を伸ばしているのだ、小柄なセイバーに手が届くわけがない。
「どうした?いらないのか?」
届かないというのは、セイバーには酷く悔しかった。
だからといって、こんな所で魔力を使って高く飛び上がるのも、アーチャーを倒すのも論外だ。
残る手段はアーチャーの身体をコアラのように登るだけ。
しかし、それは騎士としてどうなんだろう。
「ほら、悪ふざけが過ぎたかな」
セイバーが不機嫌になるギリギリのタイミングで、アーチャーが、ひょいと餌袋を差し出す。
「ありがとうございます。
って、・・・・・・なんですか、これは?」
渡されたそれは、既に空っぽだった。
悦びからがっかりまで、生き生きと表情を変えるセイバーを、アーチャーは眩しそうに仰ぎ見る。
『そう、こんな彼女が見たかった』
ともに夜を駆け抜けた想い出。
全ては想い出せなくても、一月前を切欠に、少しずつ取り戻してきた。
それでも、こんなに生き生きと顔を変える彼女は記憶にない。
『シロウが笑ってくれれば私も嬉しい』
そんなことを言って、穏やかに笑いながら、一歩退いていたような記憶しかない。
「ほら、セイバー」
あらかじめ用意しておいた、もう一袋を渡す。
「そういえば、貴方は昔からわりと意地悪でしたね」
唇を尖らせながらも、それを受け取り、楽しそうに鳩達と戯れている。
思わず目を細めた。
揺れる陽光とキラキラ輝く金色の髪。
清楚な雰囲気と、神聖さすら感じさせる愛らしい笑顔。
鳩は平和の象徴だと言う。
白い鳩と戯れる姿は、まるで地上に舞い降りた天使そのものに見えた。
彼女にはこんな世界が似合うのだ。
どれだけ強かろうが、鍛えぬき英雄すらも打倒し得るだけの力を手に入れた衛宮士郎よりも、遥かに強かろうとも、そこは彼女が居る世界ではない。
血風と剣戟の夜の闇より、平和と笑顔が彩る日常こそが、彼女の居るべき場所なのだと再確認させられる。
公園を離れ、ライダーがいつもはバイトしている骨董品屋を覗き、昼食時を迎える。
アーチャーはセイバーの予想通り、川沿いの喫茶店に入った。
適当に、と言っていたアーチャーだったが、巧みに当人があらかじめ決めていた通りのルートを辿っているのではないかと、セイバーは考えていた。
何はともあれ、オシャレな店内の奥まった席に通され、店員に渡されたメニューに目を通す。
「サヴァラン?パリブレスト?ペドノンヌ?な・・・なんですか、これは?」
セイバーにはチンプンカンプンの聞いたこともない料理と、法外なお値段が並んでいた。
一縷の望みを懸けて、アーチャーを見る。
きっと、自分と同じく、困っているだろうと思っていたのに。
「じゃ、これと、これを。彼女には、こっちの方が良いかもしれないな。
デザートには、ピュイダムールを・・・、そうだな、それに合わせて食後の紅茶はキームンがいい」
手早く注文を済ませていた。
店員を下がらせた後、なおもじっと見ていたセイバーに「どうかしたか?」と眼で問いかけた。
それにフルフルと首を横に振り、大人しく料理を待つ。
饗された料理はどれも素晴らしく、デザートのケーキ、食後の紅茶に至るまで、セイバーを満足させるには十分な物だった。
「ふむ、その顔を見ると、一応満足はしてもらえたみたいだな」
柔らかく微笑みかけ、自分も紅茶に手を伸ばす。
「む、これは、少し蒸らしすぎだな」
セイバーが満足していた紅茶にも、苦言を呈している。
「貴方、本当はアーチャーではなくコックか、バトラーなんじゃないですか?」
そんなセイバーの呆れ顔に、苦笑を返す。
「さて、セイバー、二度目になるが、午後は何処か行きたいところはあるかな?」
なければまた、午前中と同じく手当たり次第になるが。なんて言っているが、ここはそれに合わせた方が良いのだろう。
というか、合わせなければいけないのだろう。
本当は行きたいところはある。
二つだけ、どうしてもいきたい場所が在った事を思い出していた。
「私にですか?いえ、特にありません。
私にはわかりませんから、このままあなたにお任せします」
それは、己の着想に対する確信に近い予感と、目の前のアーチャーに対する、信頼を湛えた穏やかな微笑みとともに、紡がれた言葉だった。
行きたい所はあるけれど、セイバーの着想が真実なら、アーチャーに任せれば結果的には必ずそこに辿り着く筈だから。
「そうか・・・」
穏やかな日差しと、川を越えた涼しい風が、テーブルを駆け抜けていく。
セイバーの表情から、何かを感じ取ったのか、アーチャーも微笑んで頷いた。
夕暮れの帰り道、セイバーの腕の中には、彼女と同じくらい大きなライオンのぬいぐるみ。
果たしてセイバーの予想通りに、アーチャーはセイバーが行きたかった、新都で一番揃えの良いぬいぐるみ屋にちゃんと連れて行ってくれた。
「気に入ってくれたみたいで何よりだ」
店を出てからすぐ、包装を解くのすらもどかしそうに、ライオンのぬいぐるみを抱きしめた。
「ありがとうございます、アーチャー。
見てください、この愛らしい表情を」
アーチャーに言わせれば、愛らしいのは、ぬいぐるみを愛おしそうに抱き締めているセイバー自身なのだが。
「なに、君なら絶対にこの獅子に一目惚れすると思っていたのでな」
「ですが良いのですか、このように高いプレゼントを貰ってしまっても」
今抱いているぬいぐるみは、その大きさもあって、随分と高い物だった。
「なに、それだけ大事そうにして貰えれば、贈った方も嬉しくなる」
二人でゆっくりと見て周ったぬいぐるみ屋で、突如立ち止まりフルフル震えながら、動かなくなったセイバー。
その一瞬で、この巨大な獅子の子が彼女の心をつかんだのは、いくらアーチャーでもすぐに分かった。
そして、そっと値札を見た後に見せた、まるで雷に打たれでもしたかのようにショックを受け、一瞬の忘我の後に、すごすごと他のぬいぐるみコーナーに移っていった。
それでも諦め切れなかったのだろう、何度となくこの獅子が居る陳列棚に来ては、盛大に溜息をついていたのだから。
結局彼女が選んだのは、今抱いている獅子の子のぬいぐるみに良く似た、しかし大きさも値段も随分と手ごろな物だった。
苦労してセイバーの目を盗み、大きなぬいぐるみを手に入れるのには苦労したが、この喜びようを見れば、男冥利に尽きるって物だ。
「さて、日も暮れてきたし、そろそろ帰るかね、セイバー」
放って置くと、いつまでもぬいぐるみを抱き締めたまま動かないであろうセイバーに声をかける。
ちょうど、帰りのバスも着たところだ。
アーチャーの希望としては、本当は歩いて帰りたかったのだが、セイバーの様子と、抱いているぬいぐるみの大きさを考えると、それは難しいだろう。
「あの・・・、アーチャー」
「ん?」
「この子達を、後で迎えに来るわけには、行かないでしょうか?」
ぬいぐるみを抱き締めて、顔をそれに埋めるようにしているため、セイバーの表情は判らない。
「こんなに愛らしい獅子を買って貰ったのに、申し訳ないのですが・・・」
ザアッっと風が吹きぬけ、彼女の金糸のような髪を舞い上げる。
チラリと覗く彼女の耳は、夕陽に照らされている以上に真っ赤に染まって見えた。
「今日だけは、あなたと二人、このまま歩いて帰りたいのです」
夕陽の赤色が世界を照らす。
まるで、彼の心象風景のように、万物全てを赤く染め上げた世界。
その世界の中心で、彼よりも世界よりも、ずっと鮮やかに頬を染めた少女が立っていた。
「セイバー、気がついていたのか」
「当たり前じゃないですか」
チラリとぬいぐるみの影から覗いた翠の瞳と視線が合う。
いつかのデートの帰り道とは違う、深く満たされたような喜びを湛えた優しい眼差しがそこにあった。
結局、セイバーの愛を一身に受けた獅子のぬいぐるみたちには、宅配を手配し、今はこうして、セイバーと長い長い影法師を連ねて、ゆっくりと歩いていた。
二人の間に会話はなく、恐らくこれは今日一日で一番長い沈黙。
何度となく繋いだ手すらも、今は繋いでいない。
ただただ、二人で並んでゆっくりと夕陽の中を歩いていた。
ボーリングの時のように夢中になることも、公園の時のようにじゃれあうことも、ぬいぐるみを抱いた時のようにはしゃぐこともない。
そんな、何でもない時間。
けれど、セイバーとエミヤシロウにとっては、大切な時間だった。
風が出ていた。
相変わらず、『あの時』と同じ、鮮やかな夕日が橋を赤く照らしていた。
「―――あ」
セイバーが何かに気がついたように、足を止めて川の中程を見ていた。
その視線の先には、ちょっとした瓦礫の山がある。
それが何であるか、それはセイバーはもとよりアーチャーも知っている。
「?なんだよ、セイバー。アレが気になったのか?」
意識的に、口調すらかつての物にもどしている。
「いえ、まだ残っていたのかと。アレの原因は私ですから。前回の戦いで水上戦を余儀なくされ、ここで宝具を使ってしまって・・・」
セイバーもまた、思い起こすようにゆっくりと、『あの日』と同じ言葉を繰り返し、最後には懐かしそうに川を見下ろした。
キラキラと夕日を反射させる水面も、やや強くセイバーの髪を揺らす、川から吹き上がってくる風も変わらない。
セイバーの姿は、今も、そして『あの時』も変わらず、あまりにも綺麗だった。
「セイバー。今日は楽しかったか」
「はい?なにか言いましたか、シロウ?」
セイバーのその言葉に、知らず胸が震える。
あの日と変わらない君。
懐かしい声、懐かしい独特のイントネーションで紡がれる、俺の
「言った。今日は楽しかったか、訊いた」
セイバーは一瞬、泣きそうな顔になったが、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
視線は変わらない、相変わらずアーチャーを見ずに、水面に向けられたままだ。
「そうですね。新鮮でないと言えば嘘になります」
もう、それは起き得ないことだった。
かつての彼女は、憧れを含んだ声で、そう言った。
「そうか。ならまた行こう。こんなの、別に今回限りってワケじゃないんだから」
「・・・はい」
耐え切れないように泣きながら、セイバーは頷いた。
「はい、はい、そうでした。『あの時』限りではなく、今日再び叶いました」
嗚咽で喉を詰まらせながら、強く強く頷いた。
「また、来れました、『私の』シロウと・・・」
彼女の震える肩を抱き寄せた。
あの時、恐らく、言ってしまえば取り返しがつかなくなると承知して、それでも口にせずには居られなかった言葉。
「やっと、果たせたよ、セイバー」
遥かなる時間と、気が遠くなるような平行世界の果てに、あの時喧嘩別れをする原因となった約束を果たせた。
抱き締める、彼女があの時のように離れてしまわぬように、強く強く。
「やっと、取り戻せた」
磨耗した想い出を、捩れた未練を、失った宝物を、やっと取り戻せた。
今、自分の胸で泣いている、騎士でなく王でなく、アルトリアという少女の夢を。
血塗られた剣を持たず、傷つき疲れ果てた夜の世界ではなく、暖かな日常と彼女に似合う日の光が眩しい穏やかな日常を。
「私もです、シロウ」
理解していた、わかっていた、愛していた。
けれどなかなか
彼自身も、きっとそう。
自分がエミヤシロウと呼ばれることに、抵抗があったはずなのだ。
だからこその今日だった。
約束を果たす、そして、かつての自分とアルトリアの想い出を辿ることで、何かを確信したかったのだろう。
はじめは迂闊にも気がつけなかった。
だから、彼は衛宮の家に泊まり、一緒に家を出る必要があったのだ。
だから、私はあの時と同じ服を着ている必要があったのだ。
だから、今の彼らしくない、手当たりしだいといってもいいような、デートコースを辿る必要があったのだ。
かつての想い出とは違うところがたくさんあった。
ボーリング場では、人目も気にならないくらい楽しめた。
食事だって、大人の対応で完全にエスコートしてくれた。
それは、彼が変化したように、私だって変わってきたからだ。
でも、やっぱり、今日一緒に過ごしたのは、想い出を共有できたのは、紛れもないシロウだった。
「何処で気がついたんだ?」
ようやく泣き止んだアルトリアの背中を撫でながら、アーチャーは訊ねた。
「切欠は、綾子があなたをシロウと勘違いしたことと、やはり、あの公園でのやり取りです」
クスリと、両目に湛えた涙を拭い、微笑を見せる・
「そういえばシロウは、断食させられたり、わざとご飯を焦らしたりと、昔からわりと意地悪だったことを思い出しました」
そうか、とだけ短く呟き、セイバーを抱き締める腕に力を込めた。
ありったけの愛おしさを込めるように、そして彼女にそれが伝わるように。
いつまで、そうしていただろうか。
日差しは水面の向うに消え、肌寒い風がセイバーの髪を強く舞い上げる。
「この橋は、実に思い出深い」
アーチャーの感慨深げな言葉に、微笑を返す。
「『あの時』約束をかわしたのも、君と喧嘩別れしたのもこの橋だった」
「そして、あなたが私を迎えに来てくれたのも、一月前、再び待ち合わせたのこの橋でしたね」
橋は、離れた二つの地点を結びつけ、引き合わせてくれるものだ。
生まれた国も、時間も、異なる二人の出会いに誘ってくれた。
そして、黄金の別れを経て、永劫の時を越え、再び結び付けてくれたのも、偶然ではないのかもしれない。
「冷えてきたな、帰ろう、セイバー」
「何処へ?」
「実はな、今日は衛宮の家を借りられるよう、小僧とは話をつけてある」
「そうですね、今日という日を締めるために帰るのでしたら、あそこ以上に相応しい場所はないですね」
「せっかくのホワイトデーだからな、プレゼントも兼ねて、君のために腕を振るおう」
「いいえ、シロウ・・・私にとって一番のプレゼントは」
不意打ちのように重ねられた唇。
「あなたが帰ってきてくれたことです」
離れていく唇と温もりを名残惜しむように、もう一度アルトリアの細い肩を抱き締める。
「セイバーには、俺の全てを贈ったって足りないくらいさ」
アーチャーはフっと視線をそらし、悪戯っぽく微笑んで見せた。
「まだ、果たしてない約束もあるしな」
考えるように首を傾げるセイバーの耳に、言った筈だが、なんて惚けた言葉が振ってきた。
「ホワイトデーは君のために、私も腕を揮おう。
小僧のお返しが霞むほどのプレゼントを用意してみせよう」
セイバーの見上げる瞳と、アーチャーの悪戯っぽい瞳が重なる。
セイバーは弾けるような笑顔で頷いた。
「はい、腕によりをかけたご馳走を期待しています」
強く強く互いの手を握り、家路に帰る二人の姿を、かつて最後の戦いを前に、セイバーが思い人の運命を託した星が、変わらずに見守っていた。
おまけ
アーチャーの全技術と愛情を込めたご馳走が、テーブルに所狭しと並んでいた。
そのどれもが、素晴らしい味を保障してくれるのは間違いない。
「どうだ?セイバー」
「はい・・・素晴らしいです」
今日一番の微笑を前に、アーチャーは微苦笑するしかない。
「さ、冷める前に食べよう」
二人分のご飯も盛り付け食卓に着く。
「その前にちょっとだけいいですか?シロウ」
「む?かまわないが、冷めてしまうと味が落ちるぞ」
「それは、大変避けたい事態ですが、それ以上に大事なことなのです」
口には出さないが、セイバーがご馳走を前に優先するくらい、大切なこととは何か?
アーチャーには、何のことやらさっぱりわからない。
「今日のデートは大変楽しい物でした」
ありがとうございます、なんて頭を下げている。
「いや、俺こそ本当に楽しかった、ありがとうアルトリア」
意外な言葉に面食らいながらも、嬉しい言葉に微笑で言葉を返す。
次の瞬間、背筋が凍った。
相変わらず、セイバーの表情は愛らしい微笑を湛えているのに何故・・・。
一月前の、不穏な気配を思い出し、それをさらに上回る悪寒に苛まれていた。
「随分、女性をエスコートしなれていましたね」
ゾクリと、神経が妬かれる。
目がちっとも笑っていない。
「いや、その・・・」
「私と別れてから、あなたの生前にどんな事があったのか、じっくり教えていただきたいんですけど」
「話すと長くなるから、な、アルトリア、冷める前に味わってくれ」
「わかりました、では、食事の後にじっくりと聞かせてくださいね」
ニコリと微笑み呟いた一言に、アーチャーは思わずゴクっと息を呑んだ。
「夜は長いんですから、確かに慌てることはありませんね」
こうして、アーチャーは、かつての神話の夜よりも過酷で厳しい戦いに、今宵その身を投じたのであった。
魔術師の後書き
随分時間かかっちゃったけど、書きたい物のほとんどを注ぎ込めたから、個人的には結構満足です。
甘いのあり、シリアスなのあり、ほのぼのあり、最後の落ちでちょっと落としどころありってことで、かなり詰め込みすぎちゃったのが反省点です。
一応、3作連作の「それぞれのバレンタイン」のホワイトデー後日談なんで、士郎とランサーの3/14も想像できそうな状況だけ提示して、メインは弓剣って構成です。
しかし、もうホワイトデーなんて遠い昔になっちゃいました。
反省しなきゃ。
しばらく、時事的なネタを書く予定もない(多分)んで、残ってる作品の仕上げに集中したいところ。
最近読みきりを中心に書いてるので、集中して連載系の処理に行かなきゃね。
2月にかなりがんばっちゃったんで、今月はサボってるみたいですが、一応最低目標月に1作なんで、よしとしてやってください。
希望的には今月中に、三枝さんの続きを仕上げられれば上出来かと。
送別会ラッシュなんで厳しそうですけど。
あと、宣伝になっちゃうけど、いま開催してる他力本願寺って人気投票もやってます。
好きなカップリングを投票する物なんですが、弓剣もありますし、ちょっとでも面白かったなぁと思えてもらえたなら、感想書きがてら、投票して盛り上げてもらえたら幸いです。