空を見上げれば何処までも広がる青い空。
見上げただけで元気になれるような、そんな力強さがある夏の青い空は大好きだ。
だけど今見上げている、吸い込まれそうな、深く深く広がる澄み切った青い空も悪くない。
澄んだ早春の空気を胸いっぱいに吸い込み、木漏れ日の優しい日差しの中で、さざなみ寮の縁側でぼーっと空を見上げる管理人、槙原耕介はそんなことを考えていた。
3月も始まって早数週間。
御屠蘇気分も完全に過去の話となり、生活は日常のリズムを取り戻していた。
当然さざなみ寮の寮生も、高校組以下は、皆学校で授業に勤しんでいるはずである。
薫や、オーナーの愛もまた、今日は一限から授業らしく既に送り出した。
つまり、この寮にいる学生は残らず出払っているので、管理人である槙原耕介も、こうしてボーっと過ごす余裕があるというわけだ。
「良い天気だねー」
唯一の例外が、耕介の横で同じように空を眺めながら呟いた。
「ああ、そうだなーーあふぅ・・・」
「やだ、お兄ちゃんたら」
欠伸雑じりの返答にも気分を害したようすもなく、可愛らしい微笑を返す。
「いや、あんまり良い天気だしさ」
誤魔化すように苦笑する耕介の肩に、横の少女はポスンと頭を乗せる。
「お、おい知佳・・・」
「えへへー、私もなんだか眠くなっちゃった」
安心しきった表情で幸せそうに瞳を閉じる知佳。
そんな知佳とは対照的に、耕介は少し顔を赤らめて何処か落ちつかなそうだ。
「ちょうど今頃だったよね」
瞳を閉じたままポツリと呟いた言葉は独り言に近い響きがあった。
「そうだな・・・」
そう、ちょうど今頃の季節だった。
耕介がこのさざなみ寮に来たのは。
そして、知佳と兄妹の契りを結んだのは。
あれから3年、知佳は随分大人っぽくなった。
兄の贔屓目無しに美人になったと思う、それも飛び切りの美人に。
肩越しに見る知佳の表情は、どこかあどけなくて、出会ってすぐの面影を感じさせる。
それに少し安心する。
そしてそんな自分に思わず苦笑をもらす。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや、なんでもないよ」
甘えたような子供っぽい仕草に微笑を返す。
大人っぽくなったようで、やっぱり変わらない甘えん坊の知佳坊がすぐ横に居た。
「ねえ、お兄ちゃん、明日は暇だよね?」
「ああ、明日は休みだけど・・・」
「じゃあさ、私とデートに行こうよ」
「なんだ不良娘、今日だけじゃなくて明日も学校に行かないのか?」
「進路が決まってる3年生は自由登校なんだもん」
そう、知佳は夢のために、高校を卒業したら海外の大学に進学が決まっているのだ。
「だからデートしようよ、ね、お兄ちゃん。
それとも私と行くのは嫌?」
寂しそうな顔でその整った眉目が曇る。
「嫌だなんてことは全然ないけど・・・」
日頃滅多にわがままを言わない知佳のお願いだ。
聞いてあげたい、と言うか、こんなに可愛い妹から誘われれば、男として嬉しくないわけがない。
「ほんとに?」
とたんに華が咲いたように表情が輝く。
「いや、行きたいのは山々なんだけどさ。
やっぱ、真雪さんが許可してくれるとは思えないし」
「あ、それなら大丈夫。
お姉ちゃんも行って来ていいって」
「・・・真雪さん、締切前のプレッシャーで何かあったんじゃ。・・・なんてな」
「それは、言い過ぎだよお兄ちゃん」
「いーや、知佳が言ってることは本当だよ、耕介」
突然、後ろから優しい声が響く。
「ほら、今忙しくて私がなかなか構ってやれないからさ、たまには遊んでやらないとね」
ちなみに、とっくに大学を卒業している真雪は、この寮に居る知佳と耕介以外の唯一の存在だったりする。
「んで、耕介君、締切前のプレッシャーで誰がどうなったのかな・・・?」
耕介は振り向けない。
背後の声はとても優しくて甘い。
ズザーッと知佳が耕介から離れる。
「裏切り者!!」
猶も背後を振り向かず、当然声すらも出せず目だけで会話をする。
「お兄ちゃんゴメンね、それじゃ、明日楽しみにしてるから」
「お、おい、知・・・」
「ん〜〜、耕介君。何をこそこそしてるのかな?」
「あ、いや、その・・・」
「お兄ちゃん、明日までは無事で居てね・・・」
デートの服を選びながら、聞こえる断末魔に祈りを捧げる天使の姿があったとか。
相変わらずの雲ひとつ無い青い空。
まさにデート日和だな、何て事を考えながら、さざなみ寮の玄関で知佳を待つ。
「ゴメン、お待たせ、お兄ちゃん」
「遅いぞー、ち・・・か?」
振り向いて思わず言葉を失った。
キレイになったと感じてた。
大人っぽくなった、そう思ってた。
でも、やっぱり深層心理に刷り込まれてた『可愛い妹』というフィルターを、無意識のうちに通して見ていたことを思い知った。
「じゃ、出発しようかお兄ちゃん」
そう言って腕を取る知佳。
柔らかい胸の感触に胸が高鳴る。
「どうしたの?」
知佳が不思議そうに首を傾げる。
そうだ、知佳と腕を組んで歩くのなんて初めてじゃない。
二人で出かける時は、いつも腕を組んで歩いてたじゃないか。
落ち着こうと深呼吸した耕介の鼻腔をくすぐる香り。
いつも知佳の、バニラのような甘い香りの奥に、何処か刺激的な大人びた芳香を感じる。
「あ、気が付いた?
ゆうひちゃんに卒業祝いに貰った香水をつけてみたんだ」
気が利いたことも言えず、ただ頷く耕介。
頭が混乱して、何処か緊張している自分と、それを自覚して苦笑する自分。
「お兄ちゃん」
「うん、どうした?」
「お兄ちゃんこそどうかしの?
さっきからずーっと上の空だよ?」
いつのまにか、バスは二人を海鳴駅まで運んでくれていたらしい。
「いや、知佳があんまりキレイだからさ、ちょっと見惚れてたみたいだ」
「ホント?それなら嬉しいな」
エヘヘと照れる知佳。
ふにゃっとした表情は耕介のよく見知った妹の顔だった。
「で、どこに行きたい?」
「じゃあ、鷹笛プレイランドに行きたいな、それから、それから・・・」
「よし、任せろ!今日は一日知佳の言うこと聞くぞ」
「え、お兄ちゃん本当?」
嬉しそうな輝く表情を見せる知佳に耕介は胸を叩く。
「おう、聞ける範囲のことなら、だけどな」
「後で嘘って言っても、もう駄目だよ」
「言わないよー、可愛い妹のお願いだもんな」
不意に知佳の表情が少し曇った気がした。
「ん?知佳どうかしたか?」
「・・・・・・何でも、ないよ」
「どした?本当に俺に出来ることなら聞いてやるぞ、言ってみなよ」
「うん、でも、今はまだ良いや。
後でも良いかな?お兄ちゃん」
「いや、別に良いけど、その・・・なんだって急に・・・」
「じゃ、行こうよ、電車出ちゃうよ!」
耕介の腕を取り走り出した知佳。
そんな二人の後を追うように走り出した人影が一つ、込み合う海鳴駅のホームに紛れて消えていった。
「風が気持ち良いね、お兄ちゃん」
夕焼けの海鳴公園を二人で歩いていた。
「わぁ!!綺麗だね」
沈んでいく夕陽に声を上げる。
潮風に身を任せながら、沈み行く夕陽をじっと見つめる。
オレンジに染まった知佳の横顔は何処か幻想的ですらあった。
「憶えてる?」
「何を?」
「槙原さん・・・」
その呟きはか細く、風や波の音にすら掻き消されてしまうくらい僅かな物だった。
「知佳?」
覗き込んだ横顔は、先ほどまでの遊園地ではしゃいでいた顔とは別人のようだった。
大人びた、何処か憂いを帯びた表情は、耕介の胸に寂寥感を募らせる。
「槙原さん・・・、まだ、そう呼んでた頃だったよね。
お兄ちゃんと初めてここに来たのは、さ」
「そういえば・・・そうだったな」
あれは未だ耕介が管理人代理だった頃の話。
今から3年近く前の話。
「あれから、3年も経ったのか」
「3年しか・・・だよ」
感慨深げな耕介の呟きは、知佳の言葉と横顔に霧散してしまった。
「そう、だな・・・。3年しか経ってないのか」
目の前に居るのは、3年前にも共に波の音を聞いた少女。
けれど、その変わりようを説明するのに、3年という月日は確かに短い物に思われた。
もう、少女というカテゴリーよりも、女性というカテゴリーこそが、彼女に相応しいのかもしれない。
「キャ!!」
強い突風が知佳の長く柔らかそうな髪を吹き上げる。
「大丈夫か?」
知佳を風から護るように、耕介の大きな身体が知佳の身体を覆う。
耕介の鼻を知佳の髪から香るシャンプーが擽る。
チラリと盗み見た知佳の視線は波の向こう、夕陽ではない何かを見ていた。
何故か赤くなる顔を、強引に夕陽のせいにして、知佳と同じく海の向こうに目をやる。
『そっか、もうすぐ知佳はアメリカか・・・』
波の向こうにアメリカを見る。
「お兄ちゃん・・・」
コツン、と海を見たまま耕介の肩に頭を乗せる。
「3年前はね、私、お兄ちゃんのこと、『お兄ちゃん』て呼びたかったんだ」
知佳は漣の向うに、3年間を見ていた。
3年前に二人で歩いた時、二人は仲の良い兄弟に見えた。
小さな妹が、大きな兄と腕を組んで歩く姿は、微笑ましい印象を周りに与えたに違いない。
「『3年前は』って、じゃあ・・・」
今は?
その言葉を耕介は無意識に呑み込んだ。
耕介の胸の中で、肩に頭を乗せ、体重を預ける知佳、今の二人の様子は周りにどう見えるだろうか。
3年前、胸の辺りまでしかなかった知佳の頭は、今はもうすぐ側にある。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「・・・槙原さん」
「え?」
知佳はくるりと耕介の胸の中で向きを変え、正面から耕介の顔を見つめる。
スーハー、と気持ちを落ち着けるように軽く深呼吸。
「耕介さん」
決意したようにキュっと唇を結び、何処か不安気に、知佳の桜貝のような唇から紡がれた言葉。
今度は耕介もすぐに返事が出来なかった。
「私ね、ずっとお兄ちゃんが欲しかったの。
だから、お兄ちゃんが『お兄ちゃん』になってくれた時、本当に嬉しかったんだ」
その言葉が嘘でないことを示すように、不安気だった知佳の表情が、当時を思い出した瞬間にバラ色に染まる。
「でもね、いつからだろう」
聞いてはいけない。
そう、耕介の心の何処かで警鐘を鳴らす音がする。
「私ね、お兄ちゃんを『お兄ちゃん』って呼ぶのが辛く・・・」
「知佳!」
耕介が強引に知佳の言葉を止める。
「陽も沈んだし、冷えてきたな。
どっか、店に入ろうか」
一瞬だけ知佳は哀しそうな顔をする。
でもほんの一瞬だけ、すぐにいつもの顔で頷いた。
「じゃあ、私行ってみたい所があるんだ」
その一瞬の表情に、気が付かないふりをした耕介の胸に、チクリと罪悪感の棘が刺さる。
ガサリと、草むらで音がした。
風とは違う、不自然なその音は、二人が海鳴の公園に着いた時から発っていたような気がする。
移動する二人の背後、草むらのちょうどその辺りから安堵の溜息が漏れた。
「乾杯」
カチンと、合わさったグラスが澄んだ音を発てる。
「これも美味しい!」
グラスを満たした、綺麗なルビー色の液体をクイっと飲み干す知佳。
「意外といけるクチっすね、知佳ちゃん」
「これ甘酸っぱくてとっても美味しいですよ、国見さん、お代わりしちゃおうかな〜」
「じゃあ、次はこれをどうぞ」
先ほどまでと同じように、比較的飲み易く、アルコールもそれほどきつくない飲み物を差し出す国見。
「やっぱ真雪さんの妹っすね」
イケメン風の甘いマスクに柔らかい微笑を浮かべて、国見は耕介に話しかける。
口調には多分に呆れの感情が滲んでいる。
「同感です」
差し出されたカクテルを、既に半ば以上飲み干している知佳を横目に苦笑する。
何度目かわからないが、国見はそっと知佳にカクテルを差し出す。
耕介は、両手の指で数えられる回数を越えた時点で、既に数えていないので、正確には何杯目かわからない。
「さ、知佳そろそろ帰ろう」
「あ、もうこんな時間なんだ」
店内の時計は既に23時を回っていた。
「お姉ちゃんに怒られちゃうもんね」
日付が変わるまで。
それが真雪が二人に許可してくれた特別な時間。
アメリカに旅立つ妹に贈ったシンデレラ・リバティ。
知佳に対しては、過保護なまでに厳格な真雪。
それは、あの姉妹喧嘩を乗り越えた後も基本的には変わらない。
本当はいくら耕介でも、心配で心配で仕方ない真雪の精一杯の配慮なのだろう。
「そうだな、もし破ったら、もうこんな特例二度と許してくれないかもな」
「うん、そうかもね」
クスクス笑う知佳と二人、国見に声をかける。
「あ、もうお帰りすっか。
タクシー呼びます?」
カウンターの隅のほうに座る客と話していた国見が二人に向き直る。
「いいえ、ちょっと知佳が飲みすぎちゃったんで、酔いを冷まさせる為にも、ゆっくり歩いて帰ることにしますよ」
「あちゃー、やっぱり飲ませすぎましたか?
あちゃ、後で先輩におこられちゃいますね」
国見が何故か隅から逃げるように、頬を掻きながら苦笑している。
「いえいえ、国見さんが作ってくれたカクテルが美味しすぎたんで、私が勝手に飲みすぎちゃったんですよ」
FOLXを出て二人でゆっくりと歩く。
少し火照った知佳の頬を冷ます様に涼やかな風が吹く。
先ほどの潮風とはまた一味違う、さらりとした乾いた夜風が気持ちよかった。
「えへへ、私ね、いっつもお兄ちゃんやお姉ちゃんが飲んでるの見て、ちょっとだけ羨ましかったんだ」
さすがに少し酔っているのか、テンションが高く少し言葉が子供っぽくなっている。
「だから、知佳。
ほどほどにしときなさいって言ったのに」
「え、平気だよ、これくらい」
「コラ、この不良娘、ちょっと飲みすぎだぞ」
コツンと頭を叩く。
知佳の頬には朱が挿していて、心なしか色っぽい気がする。
それを打ち消すようにわざと子ども扱いしている自分。
「私、もう子供じゃないよ」
子供っぽい口調と大人っぽい表情。
今日一日感じていた、そんな両面性が目の前ではっきり顕在化していた。
いや、今日一日じゃない。
日毎月毎、少しずつ、でも確実に大人っぽくなっていく知佳を、意識していなかったと言ったら嘘になることを、そして、そんな知佳を必死で妹だと言い聞かせていた自分を、耕介は知っていた。
「憶えてる?」
キュッと組んでいた腕に力が入る。
「ここは・・・」
耕介は辺りを見渡す。
さざなみ寮に向かういつもの道。
時には歩いて、時にはバイクで、時には車で通った道。
時には二人で、時には皆で、一緒に通った道。
3年間、何度も通った道だった。
頼りない街灯に照らされた知佳の表情は綺麗で、可愛いというよりも本当に綺麗で、もう何処にも少女の面影を残していない。
何かを訴えかけるような、祈るような怯えるような期待するような・・・複雑な瞳が耕介を見つめていた。
その瞳が、脳内の思い出の中のあるシーンと重なった。
今も思い出せる。
午後の麗らかな光を浴びた真っ白い羽。
可愛い天使と兄妹になったあの日のことを。
不意に、知佳が耕介に身体を預ける
「知、知佳・・・」
あの日と同じ瞳が耕介を射抜く。
あの日、知佳は自分の秘密を耕介に打ち明けた。
白い白い天使の翼。
受け入れてくれることを祈り、拒絶されることを怯え、一緒に暮らしてくれることを期待した、複雑な瞳。
ならば、今は何をその瞳は映しているのか。
何を祈り、怯え、期待しているのか。
「耕介さん」
『お兄ちゃん』と決別して、代わりに紡がれた言葉。
「私は貴方を兄としてではなく、一人の男性として愛しています」
言葉よりも雄弁に語られた知佳の真意。
「俺は、知佳・・・俺は」
耕介の言葉に、キュッと眼を閉じ、背中に回した腕に力を込める。
小刻みに刻まれた身体の震え、ありったけの勇気を込めた生涯初めての告白。
震える知佳を落ち着けるように頭を優しく撫でる耕介。
「ゴメン・・・」
「ダメーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
耕介の言葉に重なって、茂みの中から叫ぶような絶叫が木霊する。
「真雪さん」
「お姉ちゃん」
眼を丸くして驚く耕介と、落ち着いた知佳。
それぞれの言葉で闖入者に呼びかける。
「これは、あたしんだ!!
いくらおまえでも、コイツだけは譲れない!!」
肩で息をしながら耕介を指差す。
「真雪さん・・・」
ピーピーピーピー
静寂の中、電子音の鐘が響き、魔法が解けたことをシンデレラに告げる。
「酷い魔法使いだよね、約束の時間の前に王子様の前に出てきちゃうんだもん」
「ゴメン、でも・・・」
「後を着けて来るくらい心配ならさ、初めからこんな事しなきゃいいのに。
真雪お姉ちゃんは、ホント素直じゃないんだから」
「知佳・・・」
「私知ってたよ、お姉ちゃんも耕介さんが好きなことも、耕介さんが誰を好きなのかも・・・」
耕介と、真雪と、二人をじっと見つめる。
「不束で不器用で怠け者で悪戯好きで素直じゃない姉ですが・・・」
大きく息を吸い、微笑む。
「世界で一番私を想ってくれる、優しい姉です」
微笑む顔が僅かに震える。
「私がアメリカに行ってからは、姉のことをお願いします」
堪えきれなくなった涙が、大きな瞳から零れる。
そして、そのままその場から走り去っていく。
「知佳!」
「待て、耕介」
走り出そうとする耕介の背中に真雪の制止の声が響いた。
「でも・・・知佳が・・・」
「追いかけていってどうする気だ?」
その声は、大きくも激しくも無く、むしろ冷たく乾いたように耕介には聞こえた。
「謝っても意味が無い。余計に、知佳を、哀しませるだけだ」
「・・・・・・・・・」
そんなことはわかってる。
「それとも、知佳の気持ちに応えてやるのか?」
真雪の指先は震えていた。
「・・・そんなこと・・・」
出来るわけなかった。
「真雪さん・・・」
ギュッと震える身体を抱き締める。
「出来るわけないだろ、俺が好きなのは真雪さんなんだから」
「耕介・・・私は酷い姉だよな」
耕介のシャツの胸の辺りを熱い液体が濡らす。
「あいつがお前の事を兄以上に見始めていたのは知っていた。
そして、勘の良い知佳だから、私とお前の関係もきっと知っていたんだ」
耕介の大きな手が真雪の涙を拭う。
胸で泣いている真雪は、知佳よりも幼い少女のように見えた。
「アイツがアメリカに行く前に、耕介と出かけたいって言い出した時、あたしは迷わずOKを出した。
私がお前を離せない以上、知佳はお前を振り切らなきゃいけないから・・・。
アイツの事を誰よりも大事に想ってたはずなのに・・・、それでも、例え大切な知佳にもお前を渡したくなかった」
「だから後なんかつけてきたんですか?」
ビクリと肩を震わせる。
「俺が信用できませんでしたか?」
「お前がそんな奴じゃないって信じてた。
でも、居てもたっても居られないくらい不安になって・・・。
着けていって、最後の最後で二人の間に飛び込んでさ。
マンガでも描かないような、クサイ行動に笑っちゃうだろ」
耕介は無言で真雪の顎に手をあて、上を向かせた。
そして、そっと唇を奪う。
「ん・・・」
唇を離し、そのまま頬を伝う涙の跡を拭うように唇を這わす。
「バ、バカ・・・なにやってんだ!?
しょっぱいだろうが!!」
「好きな女の子の涙はね、ケーキみたいに甘いんですよ」
「・・・クサイ奴、そんなの大昔のマンガでだって言わないんじゃないのか」
そう言って、ようやく真雪は小さく笑った。
眩しい陽の光に眼を細める。
「グッモーニング」
クラスメイトの渡してくれたコーヒーの苦味が、今朝の夢から覚めきっていない、胡乱な頭をすっきりさせてくれる。
アメリカに渡って1年、ようやく異国の暮らしにもなれ、授業にもきちんとついて行けるようになってきた。
充実した毎日。
一日一日の講義が夢につながると思えば、勉強にだって身が入った。
机に鞄を置き、教材をしまおうとする。
その前に、毎朝恒例の作業をしなければ荷物をしまうことが出来ない。
机にどっさりと入った男性からのプレゼントやら手紙やらを興味なさ気に鞄に収め、鞄の中身を机に移す。
「今日も大量ね」
笑いを含んだクラスメートの言葉に苦笑する。
「もう、チカったら誰か気になる人でも居ないの?」
手紙にもプレゼントにもちっとも興味を示さない知佳に、クラスメートは不思議そうだった。
日本を旅立つ時の姉との別れを思い出す。
「しっかりがんばって来いよ、知佳」
「ありがとう、耕介さんもお姉ちゃんのことよろしくね」
あの日から、知佳は耕介のことを『お兄ちゃん』とは呼ばなくなっていた。
真雪も耕介も他の寮の人もそれについて何も言わない。
「わかってると思うけどな、私の反対を押し切って行くんだからな。
ちょっとの事で挫けて帰ってくるんじゃないぞ」
「わかってるよ、私は真雪お姉ちゃんの妹だもん。
簡単に夢を諦めるわけないよ!」
そんな知佳の言葉に真雪も耕介も苦笑する。
似てない姉妹だって思ってる人が多いが、実は良く似ている二人だ。
夢に向かって努力して、必ず最後には実現させてしまう頑固さと強さを持った二人だから。
「さて、向うで絶対かっこいい人見つけて二人に紹介するからね。
楽しみにしててね」
悪戯っぽい顔で笑う。
「おう、2、3人見つけたら一人私にもよこせ」
真雪もそっくりな顔でニヤリと笑った。
以前は知佳の男性関係には、過保護なほど眼を光らせてた真雪だが、ここにきてどうやら一人の大人の女性として扱っているのかもしれない。
「了解、じゃあ交換で頂戴ね」
そう言って耕介の腕を取る。
「だめ、それはあたしんだ」
真雪が反対側の腕を取る。
「あははははは・・・」
姉妹に囲まれて所在ない耕介は苦笑するしかない。
「お姉ちゃんのケチ〜。
やっぱり向うでステキな人を見つけてくるしかないな」
搭乗ゲートに向かって歩いていく知佳が振り向くと、相変わらず手を振っている二人が居る。
並んで幸せそうに立っている二人を見ると、やっぱりまだ胸がチクリと痛んだ。
でも、世界で一番大好きな真雪を幸せに出来るのは、きっと耕介だけだって知っている。
愛してくれた、見守ってくれた、信じてくれた・・・
大好きなさざなみ寮で過ごした時間が頭を巡る。
大好きな場所、大好きな人たち。
その中でも、一人ぼっちの世界から救い出してくれた姉と、誰かを想う事を教えてくれた耕介は特別な存在だった。
だから、万感の思いを込めて伝えよう。
「ありがとう、行ってきます、お姉ちゃん、お義兄ちゃん!!」
そのまま振り向かずに飛行機に飛び乗る。
きっと、残された二人は『お義兄ちゃん』に真っ赤になってるはず。
「クスクス・・・、もうすぐお兄ちゃんは本当にお兄ちゃんになるんだもんなぁ・・・」
ポロリ
「あれ・・・おかしいな」
手の甲で涙を拭う。
止まらない。
溢れて、涙が止まらなかった。
哀しくなんか無い。
大好きなお姉ちゃんとお兄ちゃんが幸せになるんだから、悲しいことなんかひとつもない。
眼を閉じて目蓋に浮かぶのは、優しい人たちとの思い出。
そして、
お兄ちゃんの笑顔
「どうしたのチカ?」
気づかれないように涙を隠す。
「なんでもないよ」
「あ、もしかして気になる人でも出来た?」
珍しく、手紙に眼を落とす知佳に、興味深げに覗き込んで来るクラスメイト達。
「ううん・・・、皆ステキな人ばっかりだけどね。
今はまだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
掌のエアメールは、姉と兄の華燭を灯す日取りを伝える招待状だった。
「おめでとう、二人とも」
まだ・・・天使の胸は・・・チクリ、と痛んだ
魔術師の後書き
おひさしぶりです、魔術師です。
今回の話は、どうでしょうか?
知佳×耕介と見せかけて真雪×耕介だったという話を書きたくてミスリード誘うように書きたかったんですけど。
途中で、着けてる人が居るのを暗示するのも、真雪が『知佳』を心配して後を着けるというとらハ的な展開だと勘違いしてもらいたかったからなんですが。
つまり書きたかったのは
知佳×耕介に真雪が心配する
という話に見せかけて
本当は、真雪×耕介で真雪が心配していたのは『耕介』の方だった。
っていう、まあ何ていうかどんでん返しを書きたかったんですけど。
上手く伝わったかな?かな?
私の場合『こういうのを書きたいなぁ』って漠然と思い浮かべたら、細部は書きながらの思いつきに任せるので、想像から文章に直すと想ったとおりにならなかった。
ってことがけっこう多いのが最近の悩みです。
これも、本当はクリスマス用だったのに、お正月になり・・・・・・とうとう今の時期まで。
いっそのこと仁村姉妹の誕生日物にすればよかったかなぁ。
ちなみに、最後は別の物語とつなぐために必要だったのですが長くなってしまいました。
以前書いた短編と、この後書く短編の3部作になります。
これと、以前の作品は独立した物語としても読めますが、3部作目を読むことで、連作っぽい感じになるという遊びです。
ちなみに、3部作がでないと物語の中では以前の作品とこれがつながらないので、このまままた全然3作目を書かなくても問題ないようになってます。
とらハDVDをやったので、今またとらハ熱が上がってきてるんで、できれば冷める前に書きたいな。
連載も止まってるし。
社会人がこんなに辛い物だと思いませんでした。