紅の姫君

《白と紅のソナタ》

―――――――――――――――白い世界―――――――――――――――――――――

―――――――――――何も見えない――――――――視界一杯に広がるのは―――――

―――――白…白…白…――――――――――――輝く白い闇の世界―――――――――

――――――――――――――俺は…誰?―――――――ここは…何処?―――――――

――何もわからない………………―――――――――――――――――――――――――


この白い牢獄から逃げ出したくて、俺は必死に走ってるのに…回りの風景は変わらない…


――――――――――――――――――――白い世界――――――――――――――――

どれくらいの時が過ぎたのだろう

1秒?

 1分?

  1時間?

   1年?

そもそも、ここに刻(とき)なんて概念は存在するのか?

このまま、無限に続きそうな、白い世界に変化が起こった。

少しずつ赤が……違う……紅が…血のように鮮やかな紅が現れて…
そうまるで真っ白いキャンパスを、紅い絵の具で陵辱する様に…
白い世界を紅く染め上げていく…

怖い………………………いやだ………………止めてくれ………………………………………………………………………………………………紅は……この胸の傷を……………絞めつけるから……

……胸の傷!?
今俺は胸の傷って言ったのか?キズ?自分の事も覚えていないのに…何故?


…………………………

………………………

………………不思議だ…

紅い色が心を落ち着けてくれる…

前は怖くて怖くてたまらなかったのに…

やがて、紅が一つに収束していく。

紅が一つの形を取り始める…

ポタッ…ポタッ…ポタッ…ポタッ…

暖かな雫が俺の頬を濡らす。

紅が形作ったのは――――――――――――――――少女――――――――――――――

紅い髪を…真紅の髪を揺らしながら、紅い吹雪の中に、ただ立ち尽くす少女。

紅葉の作り出す赤い吹雪が、紅の髪を持つ少女を連れ去ってしまう。

待ってくれ…その子は俺の大切な子なんだ……………………………………………………

……………………………………………………………連れて行かないでくれ……………

「おはよう、ずいぶんうなされてたけど…」

「ああ、おはよう」


じっとりとしたいやな汗を掻いていた自分を見て、不安げに声をかけてくれた女性。

蒼い髪をショートカットにした、髪よりもさらに深い蒼い瞳を持つ第七司祭、シエルと言う名の女性がそこにいた。

3ヶ月前に瀕死の状態で目を覚ました俺をずっと介護してくれた人だ。

その人が言うには俺の名前は志貴と言うらしい。

俺が俺について知っているのはただそれだけ…。

今の俺は俗に言う記憶喪失と言うらしい。

――3ヶ月前――


「…うっ、」

「よかった遠野君…、なんとか生き返ったんですね…」

俺の枕もとに座って居た女性が嬉しそうに声をかけてくる。

「ここは…?」

「安心してください、私の部屋です」

「あなたは?…そして…俺は…誰なんですか…?」

「あなた…記憶が…」

「っつ…」

絶句する女性をよそに、とりあえずベットから起き上がろうとしたら、体中の神経に高圧の電流を流されたような激しい痛みが俺を襲った。

「無理をしては駄目です、あなたは覚えていないかもしれないけど、一度死んでしまったんですから」

「一度…死んだ?」

そしてシエル先輩は俺に語ってくれた。

俺の瞳が「直死の魔眼」と呼ばれる物である事から始まって

「ホントはタブーなんですよ、他言しないで下さいね」

と、念を押しながら、自分の正体、仕事、所属する組織etcを。

しかしいくつか語ってくれ無いことも有る。例えば

「俺の苗字は…?」

「どちらを選ぶかはあなた次第です…」

「俺の家族は?」

「いると言えば嘘になります。しかしいないと言うわけではありません。

あとは志貴君次第ですから…」

「どうして俺は死んだの?」

「借りていた命を返したから…」

「借りていた?」

「一度死んだ俺が何で生きてるの?」

「あなたの命を取り返したからです」

「さっぱり意味がわからない…」

「今はまず体を安静にして…、3ヶ月もすればとりあえず動ける様にはなりますから。

記憶の回復はそれからにしましょう」

そしてあれから3ヶ月がすぎた。

「シエル先輩、今日も夢を見たんだ…」

「また、例の真っ白な闇の牢獄の夢ですか?」

「それがこの3ヶ月同じ夢を見続けてたのに初めて変化が起こったんだ…」

「え?どんな変化ですか?」

「紅い髪の少女が出て来るんだ、何故か…その子を見ていると…胸が痛む…」

志貴の表情は、優しくて…ただ優しくて…綺麗だった…

『私には…こんな顔をしてくれないのに…』

そう思うと無性に秋葉が憎くなった。

ずっとロアを追う事だけが全てだった。

ロアを追い、そして殺す事ができればシエルがずっと望んでいた物…死…それを手に入れる事ができる。

シエルにはそれしかなかった。

死ぬ事、それだけが望み…。

そんなシエルがはじめて手に入れたいと、傍に居たいと願った男性が目の前に居るのに…。
その男性の瞳はずっと秋葉だけを見ている。

記憶を失い己が誰であるかもわからないのに…それでも秋葉だけを…

少しだけ迷って、でもはっきりとシエルは志貴に想いを告げた、

「志貴君…私と一緒に来てくれる気は…無い?」

「えっ?シエル先輩…、冗談…でしょう?」

ただ志貴を見つめるシエルの瞳を見れば答えは明白な物だった。

真直ぐに、それこそ瞬きの仕方を忘れたかのようにただ真直ぐに志貴の『瞳』を見つめる。

「思えば初めてあなたの眼を見たときから、私はあなたの眼に絡め取られたのかもしれない…その優しい、美しい眼に…」

「何を言ってるんだよ!!この眼は…この「直死の魔眼」は俺をずっと苦しめて…」

そうこの魔眼のせいで俺はずいぶん苦しんだ…思い出す事はできないけれど、この眼が嫌いだった事くらいわかる…。

「あなたは、確かにその眼が原因で苦しんだでしょう…、

でもその眼のおかげで得たものもきっと少なくないと思いますよ…」

「だけど…」

「すぐに私の誘いに答えを出さなくてもいいです、私は1週間後に日本を離れます。

その時に私と一緒に来てくれるかどうか、考えておいてください」

『彼に秋葉さんがいる事は知っている、

今の彼にこの事を持ち掛けるのが卑怯である事も承知している。

でも、志貴君と一緒に居たい…『死』以外の事で初めて欲しいと思った。

そして『死』以上に今は欲しいと思っている。

司祭でありながら今の私は…神に叛こうとも悪魔に魅入られようとも…

それでも志貴君と共に生きたいと思ってる…』

そんな言葉を残してシエルは出ていった。

一人になった志貴は空を仰ぎ見る。

『夢の中の少女は誰だろう?

それはわからないけど、きっとあの子は俺の大切な子なんだ…。

思い出すだけで胸が痛いくらいに…

俺は先輩の気持ちには答えられない…。

だけど、俺が記憶を失って…その間ずっと献身的に介護してくれたあの人の願いを聞いてあげたいとも思う…。

先輩の気持ちには答えられない…。

ただ付いて行くだけ…。それでも良いと言ってくれるのなら俺は彼女に付いて行こう…』

そんな事を考えながらまた志貴は眠りにいざなわれていった。

「私は、今日、日本を発ちバチカンに帰ります…。

志貴君は、付いて来てくれますか?」

シエルは蒼い瞳を不安げに曇らせながら志貴の言葉を待っている。

「もちろん志貴君が付いて来てくれなくても生活できる様にはしますから、心のままに答えてください…」

「俺は、先輩の気持ちには多分答えられない…」

その言葉にシエルは哀しそうな顔をする。

「それじゃあ付いて来ては…」

「でも、あなたがそれでも俺に付いて来てくれと望むのなら、俺はあなたの願いに答えたいと思う…」

「え・・・?」

「それが貴方の献身的な優しさにできる精一杯のお礼だから…。

俺はあなたの事も大切に思っているから…」

記憶を失う前に、志貴に好意を寄せる女性を虜にした優しく儚げな『志貴スマイル』と共に

志貴はそう呟いた。

「ええ…、あなたがともに来てくれるのなら…

それが友情でも…同情でも…憐れみでも…かまわないから…

私と共に来て欲しい…」

3ヶ月ぶりの外の空気を肺一杯に吸い込む。

晩秋から初冬にかけての心なし冷たい空気が肌を刺す。

空港に向かうために歩く志貴の前で、舞い散る紅葉が志貴の記憶の奥底を刺激する…。

断片的に浮かぶ映像…

夜の林の中で、自分の横で微笑む少女。

まるで、紅葉に溶け込むように少女の長く美しい髪は風に靡いていた。

少女の髪は美しい黒髪のはずなのに、何故だろう紅く染まって見えるのは…

…………きっと………………………

………………………それは……………………紅葉のせいで………

…………まるでそれは…………………紅い髪のようだった……………

そして、志貴は日本を離れた…。

何かひどく忘れ物をしたような思いに囚われながらも…

そして、それが更なる哀しい運命をもたらす事など彼は露ほどにも考えていなかった…