番外編
<愁桜>
月が西の空に沈んだ。
二人を照らし続けたアルテミスが、今アポロンにその役を譲ろうとする時間。
ようやく、恭也と忍は公園のベンチをたった。
「もう…明け方なのね…」
忍が東の空から昇る朝日を眩しそうに眺めながら、呟いた。
「そうだな、もう5時を過ぎている」
恭也が、愛用のクリップ時計を確認した。
「恭也はさ、このまま急いで帰らないとまずいかな?
そうじゃなければ…付いて来てもらいたいの…」
忍のその言葉にしたがって、約半年振りに月村邸を訪ねた。
相変らずの広さと立派さ…
そこに半年以上忍は一人でいたのだ。
恭也の回りの人間から、記憶を奪ったと言う事は、訪ねてくる友人もほとんどいないと言うことだろう。
その寂しさは、想像に尽くし難い物があるように思えた。
恭也はそんな忍の時間を取り戻してあげたいと思った。
できるだけ自分が、供にいることで…
そして、以前の様に自分の家族たちと供に過ごす時間を忍と持ちたいと思った。
玄関をくぐると
「おかえり、忍」
さくらが、出迎えてくれた。
「恭也君もお久しぶりね」
ニコリと笑って、恭也に声をかける。
「そうですね、さくらさん。
お久しぶりです」
実際は、お久しぶりでは無い。
夜の帰り道で、お花見の桜吹雪の中で、さくらは何度も恭也の前に現れていたから。
でも、二人はお久しぶりと挨拶をかわすのが自然だと思えた。
…『友人』として、会うのはひどく久しぶりだから…
忍と恭也が並んで座り、それに向かい合う形でさくらが食卓につく。
それは、忍が恭也の記憶を消し去るまでは実に見なれた光景であった。
しかし、想い出というパズルを完成するためには1ピースが足りない。
ノエルがいないから…
「忍、ノエルさんは…」
恭也が言いにくそうに忍に訪ねた。
それに、忍は静かに首を横に振った。
恭也も何も言わずに天井を見上げた。
ノエルが眠っている部屋が在る方向を。
まだ少しぎこちないながらも、かつての日々のように寄り添う二人を見てさくらは、微笑ましい気持ちになった。
忍が、最近全く見せることの無かった心からの笑顔を、惜しげも無く恭也に振りまいていた。
その笑顔は、見ているだけで忍の幸せな気持が流れ込んでくる様に思えた。
さくらはかつての自分を忍に重ねていた。
さくらにも居たから・・・
心からの微笑みが、一緒に居るだけでこぼれてしまうような男性が。
忍の横で、その悪戯に苦笑気味にしている恭也がいた。
さくらの横に居た人とはまるで似ていない。
その人は、恭也と違いむしろ悪戯好きな性格だった。
その人のする些細な悪戯が、さくらを驚かしたり、笑わせたり…
ちょうど今の恭也のように、さくらはその行動に振り回されていたものだった。
『先輩…』
その男性の名は相川真一郎と言った。
恭也と同じく優しくて…そして。
そして、きっとどんな苦難も試練も障害も自分と供に乗り切ろうとするだけの強さを持つ人だった。
時は過ぎ去り記憶は風化したり、美化されたり、変化を伴なう物かもしれないけれど…
真一郎と過ごした日々は、今もさくらの中では少しも変わらないのであった。
風化することも無く鮮烈なまま、美化する必要も無いほどに輝きを放ち、変化を起すことさえも憚られるほどに、かつての日々そのままの姿を保っていた。
しかしさくらの横に今、真一郎は居ない。
不意にさくらの唇が僅かに歪み、その頬を一筋の涙が流れた。
ビックリしたように自分を見る、忍と恭也の視線が初めは何を意味するのかさくらにはわからなかった。
不意に目の前の紅茶に、小さな波紋が揺れる。
そして初めて気がついたのだった。
己の頬を濡らす暖かい雫に…
その涙は何を意味しているのだろうか?
可愛がっている姪の忍が再び笑うことを思い出したことの喜びの涙だろうか。
真一郎を伴なう事のできなかった哀しみの涙だろうか。
どちらもあるだろう…
でも、第一の理由は『憧憬』だろう。
恭也に惹かれ始めた忍を、さくらは幾分の危惧を持って見守っていた。
かつての自分を重ねていたから・・・
忍の秘密を恭也が共有したことを知った時、さくらはいくらかの嫉妬を持って見守っていた。
かつての自分から、こぼれ落ちていった未来だから・・・
忍が恭也の記憶を消した時、さくらは激しい落胆を持ってそれを受けとめた。
かつての自分たちと違う未来を恭也と忍が歩むことを祈っていたから。
そう、さくらは真一郎と未来の共有を求められなかったから…
真一郎は、自分の上辺だけでなく全てを愛していてくれている自身があった。
『秘密』を、知ったところで離れていくような人間で無い事も確信していた。
そして事実、真一郎は自分を受けとめてくれようとしたのに…
幸せな時間は不意に音もなく儚く砕けた。
風芽丘に現れた一人の男。
氷村遊、さくらの腹違いの兄。
風芽丘で、遊に会った時、さくらは夢の終わりをどこかで感じていた。
遊の周りに隷属する女性が増えていき、やがて真一郎の幼馴染である唯子にまでその手が及んだときに、さくらは決心をした。
遊のせいで、胸に秘めた思いとその純潔を散らした唯子。
そしてさくらは真一郎の目の前で……遊を殺した。
真一郎は、唯子のことも優のこともさくらの正体もすべてを抱えて、未来をともにしてくれただろうか。
真摯で力強い瞳に、深い悲しみの色をたたえた真一郎の瞳。
その瞳と、悔恨からさくらは逃げ出してしまったのだ。
万が一の拒絶が恐ろしくて・・・
抑えきれない嗚咽が、こぼれた。
「さくら・・・」
忍が心配そうにさくらに声を掛けた。
恭也もまた心配そうな瞳で、さくらを見つめている。
初めて恭也と会ったとき、気がついたことがあった。
恭也はただ一点だけ真一郎に似ていたのだ。
力強く真摯な瞳が・・・記憶の中の真一郎と重なった。
キッと、敵意すら含んださくらの瞳をまっすぐ受け止めた恭也。
「さくらさん、どうかしたんですか?」
恭也の言葉にさくらは、涙を拭いて柔らかく微笑むと、忍と恭也に向かって優しく笑いかけて、一言だけ祝福の言葉を送った。
「二人が、またそうしていられるようになってよかったなと思ってね」
きょとんとした顔をした忍が、突然叫び声を上げた。
「どうしたんだ、忍?」
恭也が、相変わらず驚いたんだかそうでないんだかわからないような表情で、忍に尋ねると、忍はさくらのほうに向き直り
「どうして、恭也が仕事でしばらく翠屋に居ないなんて事知ってたの?」
と、いぶかしげに尋ねた。
そう、恭也と忍が記憶を失ってからの最初の再会。
忍は、さくらから恭也がしばらく仕事で翠屋に居ないことを聞いたのだ。
そのために、つい、恭也の温もりを探しに、恭也が居ない2週間だけ翠屋に通っていた忍だった。
「どうしてでしょうね」
さくらは、悪戯っぽい微笑で答えようとしなかった。
「じゃあ、恭也が1日早く戻ってくることも知ってたの?」
さくらは、もう何も答えずに恭也と並ぶ忍を見ていた。
『私もね、恭也君が早く帰ってくることを知っていたわけじゃないの。
でもね、二人の強い気持ちと運命が奇跡を起こしてくれるんじゃないかな・・・。そんな事を考えてみただけなの』
奇跡
それは、めったに起こるものではないのは、他ならぬさくらが誰よりも良く知っていた。
さくらや、忍が、未来を共有できる人と出会うこと自体が奇跡に近い確立なのだから。
そんな奇跡に近い二人の出会いに、もう一度奇跡が起こるのをほんの少しだけ期待しただけ。
奇跡
もしあるのならさくら自身が見てみたかったから・・・
『私はそれにほんの少しだけ協力しただけ』
幸せそうな二人の姿に、さくらは数年ぶりに心の底からの笑顔を見せた。
それは、まださくらが真一郎と生きていたころに見せた、屈託のない笑顔であった。