恭ちゃんご乱心 後編


ピチャン…

恭也の額に冷たい感触が当てられる…。

『気持ち良い…』

その感触が恭也の意識を覚醒させて行った。

「う〜〜ん…ここは?」

恭也が目を覚ました時、天井がいつもと違う物であることから、自分が寝ている場所がいつもの寝室ではない事に気がついた。

カタン…

物音がする方に目をやると、良く見知っている女性が泣きそうな顔で恭也を見つめていた。

「良かった…恭也君。目を覚ましてくれて…」

声までも震わせながら、その女性は恭也の手を取った。

今、自分の手を握っている人間から推察するに、どうやら自分は海鳴病院に居ることを恭也は理解した。

手を握る彼女の手はカタカタと小刻みに振るえていた。

いつから恭也の介護をしてくれていたのだろうか?

フィリスの手は、冷水で幾度もタオルを絞っていたために、ふやけて紫色に変色していた。

恭也はその手を強く、そして優しく握りながら優しく微笑んだ。

「フィリス先生。あなたのその白魚のように美しい指が、こんなになるまで俺のことを看病してくれて…。
ありがとうございます」

透き通るような優しい微笑と共に紡がれた言葉に、フィリスは思わず頬を紅く染めた。

そんなフィリスに、恭也は真直ぐな瞳を注ぐ。

思わず高鳴る鼓動。

フィリスは自分の胸の動悸を誤魔化す様に、廊下に居る恭也の無事を祈る人達のもとに報告に向かった。

フィリスから報告を受けると廊下に居た桃子、フィアッセ、レン、晶が凄い勢いで病室に飛び込んできた。

「恭也!!あんた大丈夫?」

「恭也〜〜。苦しいとか気持悪いとか…無い?」

「お師匠〜。目眩、吐き気、腹痛その他諸々以上は無いですか?」

「師匠!!!師匠が倒れるなんて…俺…俺…」

口々に恭也を気遣いながら病室に飛び込んでくる家族達。

「みんなにも心配をかけてしまったのか…。

本当にすまないな…」

と、桃子ですら見た事も無いような笑顔のオン・パレードで恭也は家族を迎えた。

日頃の無愛想で無表情な恭也。
僅かな笑顔を見せてくれる事すら滅多に無いのに、今日は極上の笑顔が顔に溢れていた。

先ほどのフィリスと同じく、思わず恭也の笑顔に引きこまれるように見惚れてしまう桃子を含めた四人であった。

真っ赤になって動けない四人の影から、なのはが何とか顔をだして恭也の傍まで近寄ってくる。

「おにいちゃ〜〜ん!!」

胸に飛びこんでくるなのはを受けとめて、恭也は優しく頭を撫でた。

「なのは…ヒック…お兄ちゃんが死んじゃったら…どうしようかと思った…」

恭也に頭を撫でられて安堵したのか、なのはは恭也の胸で泣き始めた。

「心配かけてごめんな、なのは。

悪いお兄ちゃんだな、俺は…。

でも、もう大丈夫だから泣きやんでくれないか?

せっかくのかわいい顔が涙で台無しだ…」

そんな恭也の言葉を聞いて、なのははキョトンとした顔つきになった。

「それから、美由希…。お前も気にする事は無いよ…」

恭也が倒れた責任を感じていたのだろう。

恋人として誰よりも早く恭也に飛びつきたいのに、それを抑えて扉の前で心配そうに恭也を見ている美由希にも、恭
也は優しく声をかけた。

「恭ちゃん…ごめんね…」

美由希はずっと泣いていたのだろう…

真っ赤に充血して、瞼が少し腫れぼったくなっている。

恭也は、美由希の頬を両の掌で挟み込んで、ゆっくりとその顔を引き寄せた。

ほとんど息がかかるくらいの至近距離まで引き寄せると、

「バカだな…、泣きはらしていたのか?」

「だ…だって恭ちゃんが私のせいで倒れちゃったんだよ…」

美由希が、そう言いながらも責任を感じてまたも瞳が潤む。

「どうして、お前のせいなものか。

俺が倒れたのは偶然であってお前の料理のせいだなんて俺は思ってないよ…」

そう言いながら、美由希の眼鏡を外すと恭也は優しく涙を溜めている美由希の目許を拭ってあげた。

「はややや、きょ、恭ちゃん〜」

美由希が照れて真っ赤になっているのを尻目に桃子達は戦慄を覚えていた。

「きょ、恭也が倒れたのって…」

「美由希の料理のせいなんだ…」

「美由希ちゃんもごっつい物作るな〜…」

「料理で師匠をKOか…ある意味恐ろしいな…」

 

そんな大人達と違って、なのはは一人違和感を覚えていた。

「なんか…お兄ちゃんいつもと違う気がする…」

と言うか、明らかにいつもと違うのである。

恭也の代名詞とも言える無愛想&無表情が鳴りを潜め、勇吾のように自然に相手に対し思った事を口にしている。

元々、恭也は感情表現などが苦手なだけで人一倍優しい男だったが… 

 

 

次の日

朝、忍の前方に恭也が歩いている。

後姿だが、忍が恭也の後姿を見間違えるはずは決して無かった。

「おはよう!恭也」

トーンと軽く恭也の背中を叩きながら忍は声をかける。

いつもの挨拶の仕方だった。

そして、恭也は無愛想な顔に僅かに…本当に僅かに笑顔の粒子をその端正な顔に閃かせながら

「忍、おはよう」

と、芸の無い挨拶を生真面目に返すのだった。

ところが―――――――

「ああ、おはよう忍!!」

その端正な顔に、今まで見た事も無いような笑顔を浮べて、爽やかに忍に挨拶を返す恭也がいた。

「きょ、恭也?」

いつもと違う恭也の反応に、忍は思わず恭也の顔を覗きこんだ。

恭也の次の行動は、忍の知っている高町恭也の範疇から完全に逸脱していた。

「忍…」

呟く様に、名前を囁きながら、忍の美しい髪の一房を優しく摘み上げると

「シャンプーを変えたのか…。良い香りだ」

と、耳元で囁いた。

「え?え?え?え?」

「俺は好きだぞ…」

混乱する忍に、自然な感じでそんなことまで呟く。

もちろんシャンプーの香りの話をしているのは、忍自身も良く知っていたが、好意以上の感情を持っている男性から、
それも朴念仁だと認識している恭也からそんなことを真顔で囁かれたら、混乱するに決まっていた。

混乱している忍と共に教室に入っていく恭也。

「おはよう、高町君」

特に親しくしている訳でもないクラスの女子生徒が恭也に声をかける。

いつもの恭也なら、『おはよう』の一言で足早に自分の席に行ってしまうのに、やはり今日の恭也は違っていた。

「ああ、おはよう」

勇吾顔負けの爽やかな笑みを浮べている。

いつも無愛想でクールな恭也のにこやかな笑みは、それだけで媚薬以上にクラスの女子の心を蕩けさせた。

元々、その端整な顔立ちに憧れている女生徒はダース単位で計算しなければならないほどに居た恭也なのだ。

その恭也の、とっつきやすくて明るく爽やかなイメージチェンジは、風芽丘だけでなく海中にも大きな変化を与えた。

なんと、ファンクラブの構成員の比率が、今までの勇吾70:恭也30から勇吾40:恭也60に逆転したのである。

美由希の元に連日多くの女生徒が尋ねてくる。

「高町さん、お兄さんにこの手紙渡して!!」

「高町さん、お兄さんの電話番号知りたいんだけど…」

と言う、普通の物から

「恭也さんの下着をこっそり売ってくれない?」

「恭也さんが好きな食べ物って何?」

「恭也さんの入浴シーンを盗撮してくれない?」

と言う、ちょっとストーカーが入っていて怖い物。

挙げ句には

「今日から義姉さんて呼んで!!!!」

と言う、明かな電波系の者まで多種多用だった。

 

その後も――――

「きゃ!!!」

例によって階段で滑り落ちそうになった那美を、恭也が階下で優しく抱きとめた。

「大丈夫ですか?那美さん」

最近では、もはや見なれてきている極上の笑みを浮べて、自分の胸に抱かれている那美に恭也は優しく囁きかける。

「は、は、は、はい」

照れて、茹蛸のように紅くなっている那美が慌てて恭也から離れる。

ツルッ

飛びのいた拍子に、またも階段から落ちそうになるのを、恭也が腕を延ばして助け上げた。

細い腰にその腕を回し、那美が落ちる前に引っ張りあげた。

「重ね重ねすいません!!!」

那美は恥ずかしいやら照れくさいやらで混乱している。

「いえ、怪我が無くて何よりです。

那美さんのかわいい顔に、かすり傷すらも付ける訳には行きませんから」

そう言って那美の反論を封じると、お姫様抱っこしたまま教室まで那美を送り届けた恭也であった。

 

「フィアッセ!重そうだな、そのトレイ。

それも俺が持つからこっちに…」

「でも、恭也すでにトレイ三つも持ってるじゃない」

「これも鍛錬の一つだし…」

そう言いながら、フィアッセから更にトレイを受け取る。

「女性に…重い物は持たせられないからね」

そう言い残して、足早に仕事をしにフロアに戻ってしまった。

 

「恭也…、送ってくれるのは嬉しいけど。

別に母さん一人でも帰れるから、わざわざお店まで迎えに来なくても大丈夫よ」

暗い夜道、頼りない街灯の光りの下で、何処までも並んで伸びる二つの影。

言わずと知れた、高町桃子と恭也と言う、親子と言うより兄弟に近い年齢差の二人だった。

「何を言っているんだ。

この道は夜は暗くて危険だよ。

かーさんはまだまだ若くて綺麗なんだからさ、不埒な奴が出てきたとしてもおかしくない」

『若くて綺麗なんだから…』

その言葉を言われた方は、言った方の半分も冷静さを保っては居られなかった。

恭也と桃子は親子であっても、血の繋がりは当然無い。

親子よりも兄弟に見える……
そして兄弟といよりも、恋人どうしに見えるかもしれなかった。

「恭也……最近とみに士郎さんに似てきたわね…」

桃子は、ここ数年思っていても決して口にしないで居た事を言ってしまった。

「それは、父さんの子供だからね…」

そう、恭也は士郎の子であって桃子の子では無いのだ。

士郎と重なる多くの共通点が、恭也を見る桃子の瞳から母性を少しづつ剥いでいっている様に思われた。

 

痛々しい白い包帯が忍の右足に巻かれていた。

「どうした?忍…。怪我か?」

「うん、ちょっとね…」

まさか車に当てられたとも言えず、忍は適当に言葉を濁した。

そして、右足を引きずる様に歩く忍を恭也は無言で抱き上げた。

「え?きょ、恭也!!!?」

ビックリし、同時に照れ隠しも兼ねて、忍の声は大きな物になっていた。

「これからしばらくの間…そうだな足が良くなるまでの間は俺が運んであげるから…」

恭也は、忍に優しい瞳でそう語りかけた。

「べ、べ、別にこれくらいの怪我…、歩けるから大丈夫!!」

忍はなおもそう言って抗議したが

「気にするな。俺がしたいからしているんだ」

極上の笑みでそう断言されてしまっては、忍としても何も言えない。

元々、恭也の行動も好意も嬉しいのだから尚更だ。

ただ、照れくささが先にたって断っただけのこと、

本当はこうして、恭也に抱かれている時間は忍にとって至福であった。

 

 

こうして

「恭也さん…」

「恭也〜〜」

「恭也…あの子ったら…」

「恭也……」


と、言葉の内外にハートを飛ばしている方々は、確実に増殖していった。

恭也にとってはただの親切が、勘違いと思いこみの相乗効果で、多くの人間の心を蕩けさせていくのが、
恭也の恋人である美由希に面白いはずは無かった。

第一、今の恭也も優しくて明るくて悪くは無いが、
美由希が幼い頃よりずっと師事し、尊敬し、憧れ、そして愛したのは、
寡黙で無愛想で朴念仁で…でも心の奥底に優しさを秘めた、そんないつもの恭也だったのだから。

そんなことで、美由希が凄い剣幕でフィリスの元を訪れたのは恭也が退院してから10日後のことであった。

今までの事は美由希は何とか我慢してきた。

美由希自身が、ずっと恭也にもう少し明るく振舞え、とか愛想を良くしろ、などと色々と言っていた手前、
文句を付ける訳にはいかなかったからである。

しかし今日の出来事はとうとう美由希の我慢の限界を超えた。

「フィリス先生!!!恭ちゃんおかしいんです!!!

ぜひ治療をしてください!!」

病室に入っての第一声がそれであった時点で、相当に美由希の怒りと混乱のボルテージは高い。

「ほえ?恭也さんに何かあったんですか?」

何故かフィリスは、恭也の名前を聞いた途端、容姿に釣り合う子供のような少女のような表情になった。

「フィリス先生……最近恭ちゃんに会いましたね?」

フィアッセや桃子、那美や学校の女生徒に負けないくらいに、夢見る乙女のような表情のフィリスに美由
希は何かを感じた。

「……そんな事はありませんよ…」

一瞬引き攣った頬の動きを、美由希の鍛え抜かれた御神の剣士としての眼力が見逃すはずも無かった。

ジ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

物凄いジトメでフィリスを見つづける美由希にフィリスは降参した。

「はい、恭也さんにはこの間会いました…。

駅前のデパートで…」

「それで恭ちゃんに何か言われましたね…?」

「な、なんでそこまで…」

その驚きの態度が美由希に何か会った事を確信させた。

「御神の剣士の勘は並では無いのですよ…」

「お、恐るべき御神流…」

カチャ

「フィリス先生、失礼します」

そんな二人の会話が終わってすぐに、一人の中年の看護婦が病室に入ってきた。

「あら、フィリス先生…

今日は随分とかわいい服着てるわね〜!!

でも、とってもお似合いですよ〜〜!!まるでお人形さんみたい」

そんな言葉をフィリスに投げかけて、その看護婦はカルテを置いて出ていった。

「「・・・・・・・・」」

病室に残されて二人は無言だった。

ッて言うか、フィリスに何かあったのは一目瞭然だったのだ。

いつもの黒いシックなスーツで無く、今日のフィリスはピンク色のワンピースを着ていたのだから。

しかもご丁寧にもその胸にバラを模った飾りまでついている。

そんな、ピンクハウス系のヒラヒラな、真一郎が喜びそうなかわいい服を着ていたのだから、何も御神の剣
士でなくてもすぐに気がつく。

 

 

「くっしゅん!!!」

「どうしたの?真君、風邪でもひいたの?」

「……わからない…」

「またどっかで噂されてるのかな?真君かわいいからね〜」

「未だに高校生に、君かわいいね?何処の中学の子?とか言われてナンパされるOLさんには、かわいいなんて言われたくないな〜〜」

と言いながら『うにゅ〜』をかます。

「ひたひ、ひたいよ真ふん〜〜!!」

 

 

「……で、恭也さんがどうおかしいんですか?」

気を取りなおして、フィリスが美由希に真面目な顔で訊ねる。

「ここで入院して、目を覚ましてからの恭ちゃんは明かにおかしいですよ〜」

「言われて見れば…確かに…」

フィリスは倒れる前の恭也と倒れた後の恭也を比較してみた。

前→クール&ニヒルなハードボイルドタッチの大人の魅力

後→笑顔が爽やかなジャニーズ系で甘く優しい感じ

ブツブツブツブツ…

医者らしい表情で何かを色々考察しているフィリス。

しかし格好はピンクハウス。

「…で、恭ちゃんは直りますか?フィリス先生」

「壊れた原因と全く同じか、それ以上の衝撃を与えれば…もしかしたら…」

「わかりました!!!!やってみます!!」

「がんばって下さいね、美由希さん」

そういって微笑むフィリスの耳に美由希の独り言が聞こえる。

「まずお肉屋さんによって…にんじんとジャガイモと…」

「あの…美由希さん?」

その声に美由希は弾かれた様にして顔を上げると、フィリスに向かって微笑んだ…。

「大丈夫です。今ならきっと出きるはずです…。

今まで以上に恭ちゃんへの愛情を込めた美味しい料理が…。

私やってみます!!!」

そういって、弾丸のような勢いで病室を後にした美由希。

そして一人残されたフィリスは…

「恭也さんが倒れた理由って…美由希さんの…料理…なの?」

冷や汗がフィリスの背中に流れてきた…。

最後の美由希の『私やってみます!!!』がフィリスにはどうしても

『私殺ってきます』

にしか聞こえなかった…

「恭也さんもう一度来るかもしれないから…ベットメイキングしておこう…」


そして案の定と言うべきか、今宵、もう一度恭也の悲鳴が海鳴の町に轟いたのだった。