過去と未来の狭間で
第3話
時刻はいつの間にか十一時を過ぎ、那美はノエルに部屋に案内されて2階に上がっていった。
一人、居間に残され紅茶をすする恭也の傍に、トテトテと言うかわいい足音と共に忍ちゃんが走り寄ってくる。
「どうしたんだい?忍ちゃん…」
何も言わずにポスンと恭也の身体に体当たりをする。
尤も鍛え上げられた恭也の身体は微動だにしなかったが…
えへへへ〜、とかわいい笑顔で恭也に甘える忍ちゃんが
「忍ね…お兄ちゃんの事…好きよ…」
と言って、頬にチュと軽く口付けをしてきた。
普段から子供に何故か恭也は好かれる。
なのはにも久遠にも好かれているし、彼女らの好意の証としての「ほっぺにチュ」にも慣れてはいた。
しかし、それと忍ちゃんのチュを同じに扱う事は恭也には難しかった。
今、自分に純粋な好意を向けてくれたのは紛れもない月村忍である。
そして、恭也にとっての月村忍とは紛れも無いクラスメイトの女性である。
いつもの様に
「ありがとうな、俺も大好きだぞ…」
と言って頭を撫でてあげるのにも抵抗を感じる。
どう反応して良いやら、恭也には判断が付きそうも無かった…。
しかし、じっと見つめる忍ちゃんの純粋な瞳に、恭也はとりあえず頭を撫でてその場を誤魔化すしかなかった…。
「忍ちゃん…お兄ちゃんも好きだよ。さあ良い子はもう寝ないとね…」
そう言って、なんとかこの場を取り繕うとする恭也に、無邪気な悪魔は二撃目を投下した。
「一緒に寝ても良い?お兄ちゃん」
「・・・・・・・・・・・!!!」
恭也はさすがに即答しかねた。
もちろん、なのはや久遠が怖い夢を見たのか、自分の布団に潜り込んでくる事はままある。
しかし、忍ちゃんはまずいのでは無いか?
恭也はそう思わずにはいられなかった…。
別に恭也がロリコンな訳では断じてない。
しかし、忍ちゃんは何て言っても月村忍なのだ…
混乱する恭也に忍ちゃんは目を潤ませて
「お兄ちゃん…忍の事嫌いなの?一緒に寝ちゃダメ?」
と、哀しそうに呟いた。
「お兄ちゃん今日は疲れてるからまた今度ね…」
結局恭也のした選択は問題を先送りにした、ただの現実逃避である。
しかし、恭也を責めるのはこの際、酷と言えよう…。
「忍…出てこい…」
忍ちゃんが2階に上がって行ったタイミングを見計らって柱の影にいた忍に声をかける。
「…へへへ。ばれてた?」
忍の顔にもほんのりと朱が挿していた。
「当たり前だ…」
今だに、頭の中にさっき言われた忍ちゃんの言葉が回る。
『お兄ちゃん大好き…』
『一緒に寝よう…』
それは紛れも無く目の前に佇む月村忍の言葉なのだ。
「…恭也」
忍もやはり何処か照れくさそうだ…。
それはそうだろう…自分は目の前の男性に大好きと告げたのだから…
沈黙の唄が二人の中で流れていた・・・
二人とも、この沈黙を何とか打破したい気持ちで一杯になっていた。
しかし、同時にどうしても良い案が浮かばずに困惑もしていた。
「し…忍…あのさ…」
「な…何…?」
「忍と一緒に寝ても…良いか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「は?」
しばらくの重い沈黙のあと忍は聞きかえさずには居られなかった…。
恭也も自分の発言が、著しく誤解を招く要素を孕んで居る事にようやく気が付いた様で
「違う違うお前じゃなくて忍ちゃんと…」
と、上擦った声で一生懸命誤解を解こうとしていた。
「なんで、私に聞くの…?」
「いや…だって…忍と寝るわけだし…」
その表現に恭也も忍もともに顔にボッと血液が昇るのを感じた。
「い…いや…やっぱりさ。忍ちゃんと一緒に寝るのは…まずいよ…。
私が一緒に寝てあげるから…さ…」
「……は?」
「え?」
恭也が複雑そうな顔をして在らぬ方向に視線を向けていた。
「え…?違う違う!!!」
今の忍の発言は取り様によっては
「忍が恭也といっしょに寝てあげる…」
と言っている様にも取れる事に気が付いて、今度は忍が慌てる…。
「忍…何が違うんだ?」
恭也はきょとんとした瞳で忍を見つめていた。
「え…だから…」
忍はどうやら自分の着想がただの考え過ぎであった事に気が付いたらしくて、ますます顔を紅くしている。
「何でも無い…。
恭也は何でさっき複雑そうな顔をしてたの?」
『そもそも恭也のその表情からおかしな事を考えちゃったんじゃないの!!』
そんな気持ちを込めて、少しきつく恭也に尋ねた。
「いや、こんな会話誰かが聞いてたら勘違いされそうだな…。
と思ってさ…」
「あ…そうね。もう止めて寝ましょうか?」
「ああ…お休み…」
翌日
恭也が降りてきた居間では那美が一人で紅茶を飲んでいた。
「あ、恭也さんおはようございます」
降りてきた恭也に微笑みながら恭也の分も紅茶を注ぐ。
「あ、那美さん。おはようございます。他の奴らは?」
「なんか忍さんと忍ちゃんとノエルさんは、3人で朝出かけましたよ…」
「そうなんですか…」
恭也も那美の前の席に座り紅茶に口をつける…。
「私も今から出かけますけど…」
「那美さんもですか?」
「はい…薫ちゃんが過ごした海鳴の街を見てみたいので…」
そう言って、那美も紅茶のカップを下げて何処かへ行ってしまった…。
一人残された恭也も溜息をついて
「仕方が無い…。俺も鍛錬でもしに行ってくるか…」
と言って、海鳴の街にロードワークに向かった。
とりあえず走りこみ、打ちこみ、鋼糸や飛針の鍛錬を済ませ、散歩がてらに軽く町を流す。
軽く…と言っても恭也にとってで、普通の人から見たら全力疾走に近い速度なのだが…。
ちらりほらりと、学校帰りだろうか?
制服の集団を目にするようになる。
特に前方を歩く3人は一際目立って見えた。
楽に170を超える女の子と、逆に140にも満たないのでは?と思えるほどに小柄な女の子に挟まれる様に、160くらいのガクランの男の子が3人で歩いている。
ガクランの男の子をからかってでもいるのだろうか?
長身の女の子がポニーテールを揺らしながら、もう一人の女の子の手を取り走って逃げる。
時折、振り向いて男の子にアッカンベーと舌を見せる。
男の子と女の子達の距離は5メートル。
恭也と男の距離はさらに約8メートルほどであった。
不意に赤信号を無視して女の子の方にトラックが凄い速度で突っ込んで来る。
しかし、後向きに走っている彼女達は未だにその事に気が付いていない。
先に気がついたのは、彼女達に向かって走っている少年の方だった。
「唯子!!!小鳥!!!危ない!!!」
彼は少女達に危険を呼びかけると、同時に自分もまた全力で走り始めた。
恭也もまた彼女達を救うべく、常人を遥かに超えた速力で疾風の如く走り始めた。
「逃げろ!!何をやってる!!!」
少年が怒鳴っても女の子達は恐怖のためかその動きはひどく緩慢な物だった。
「ちっ!!!」
少年が少女達を助けるべく道路に向かってダイブした。
ポニーテールの大柄な少女が小柄な少女を少年の方に押しやった。
そのおかげで小柄な少女は、少年が伸ばした手に何とか掴む事ができた。
しかしもう一人の少女には少年の手は無情にも届かなかった。
慣性に任せて少年の身体が道路を横に流れる。
地面に激突する小柄な少女の身体を自らの身体を盾に何とか護りぬいた。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンン!!!!!
壁に激突したトラックから黒煙が濛々と噴出していた。
「ッツ…」
少女を護るためにその身を盾にした少年の身体は、しこたま道路と接吻を交わしたために身体中、傷だらけであった。
しかし、少年はそんな己の身体を顧みることなく周りを見渡した。
「唯子!!!!!!唯子!!!!!!!!何処だ!!!!!!!!!」
呼びかけども姿は見えない…。
少年は声をあげて泣いた。
何故自分は彼女の手を掴めなかったのか!!!と…
「真君真君!!!!」
小柄な少女は真君と狂った様に呼びかけながら彼に抱きつき涙を流していた。
自分はまた足を引っ張ってしまった!!!
唯子一人であったならきっと助かる事もできたのに!!!
と…
ダン!!!!
ダン!!!!!!!!!
真君と呼ばれた少年は、何度も己の左拳を地面に叩きつけた。
皮が裂け血が流れても、彼は地面を狂った様に殴り続けた…
「真君!!!」
不意に少女が少年のその行為を止める様に少年の前に立ちはだかった。
「止めるな、小鳥!!!!この手が…この手があと少し長ければ唯子は…」
少年はなおも涙を流しながら、その手をまるで己を罰するかのように地面に叩き付けようとした。
「違うの真君!!!唯子は…唯子は生きてるよ!!!!」
小鳥は眼に涙を溜めながら、しかし最高の笑顔で微笑んでいる。
「真一郎…手…大丈夫…?」
真一郎も小鳥も幼いころからずっと聞いていた少し間のぬけた、
けど優しい声が耳を叩いた。
「唯子!!!」
真一郎が声がするほうに顔を向けると、見た事も無い男性に抱き上げられている唯子の姿が目に映った。
「唯子…お前…どうして…」
真一郎は嬉しそうに唯子に訪ねた。
「さあ?唯子にも良くわかんないよ〜。
もう駄目!!と思って眼を瞑ったら、急に誰かに抱き上げられたみたいな感じがして…
ドオオオオオオオオン!!!って爆音がするのに痛くないから、そっと眼を開けたらこの人がにっこり笑って
「怪我は有りませんか?」
って…」
唯子はその時の男の顔を思い出したのか頬を紅く染めた。
「ありがとうございます…あなたは…?」
真一郎が立ち上がって礼を言うと男は
「俺は高町恭也といいます…。
良かったです…皆さんに怪我が無くて…」
と言って、微笑んだ…。
「でも…あの状態でどうやって唯子を助けたんです?」
真一郎が疑問に思うのも当然だった。
真一郎より遅く飛びこんで無事に済むなんてまず有り得ない…
例え、御剣のような忍者であっても、無傷で救出するなんてまず不可能に思えた。
「とりあえず…ここから離れませんか?警察も呼んだし…。
それにあなたの左手の治療もしなければ…」
血が滴り落ちている真一郎の左拳を見ながら彼はそう提案した。
真一郎は高町恭也と名乗った男の言うとうりこの場を離れる事にした。