16話
退屈な数式で満たされた教科書に隠れて、今日何度目か数え切れない欠伸を噛み殺しているクラスメートを見る。
確かに退屈な数学の授業は眠い、眠すぎる。
しかも、席が窓際のため、冬の暖かい陽だまりが心地よい眠気を誘うのだ。
「那美ちゃん、眠そうだね」
「あ、見られちゃいました?」
そういって、恥ずかしそうに小鳥に微笑を返す那美。
しかし、今日の那美がいつもにもまして眠いのにはわけがあった。
昨日の忍たちとの話し合いが終わったのが午前二時、それからベッドに入ったわけだから、絶対的に睡眠時間が足りていないのだ。
先生に隠れて小声で話しているうちに、ようやく午前最後の授業の終了のチャイムが鳴った。
「小鳥〜!」
チャイムが鳴り終わるのとほぼ同時くらいのタイミングで、元気良く教室の扉が開かれる。
ふりふりと楽しそうに揺れるポニーテールが、まるでじゃれつく子犬の尻尾のように見えた。
「おべんと、おべんと嬉しいなぁ♪」
「もう唯子ったら、慌てなくてもお弁当は逃げないよ」
苦笑しながらお弁当を広げる小鳥に対し
「え〜逃げるよ、真一郎が唯子のニンジン、取りに来るかもしれないじゃん」
と、言いながらさっそくキャロットグラッセをつまむ。
「那美ちゃんも良ければ一緒にお弁当食べようよ」
「うん、そうさせてもらうね」
そう言って鞄からお弁当箱を出そうとする。
「・・・あれ?」
「どうしたの?」
幸せそうな顔で料理に舌鼓を打ちながらの唯子の質問に、ただただ苦笑する那美。
「お弁当忘れてきちゃった・・・みたい」
「じゃあ、私のお弁当一緒に食べる?」
「でも、悪いし・・・」
「うんうん、一緒に食べようよ。小鳥のお弁当は絶品なんだよ」
と、何故か唯子が胸をはる。
ちなみに、好物のキャロットグラッセを摘まむ箸の動きが、スピードアップしているのはご愛嬌だ。
そんな時、一瞬教室がざわめいた。
何事かとそちらに目を向ける3人。
唯子は大好物のはずのキャロットグラッセを思わず落とし、目を見張って自分たちの机に近づいてくる男を見ていた。
「那美さん、忘れ物です」
どう見ても似合わない、ピンク色の巾着袋をもって恭也が立っていた。
「ありがとうございます、恭也さん。わざわざ持って来てくれたんですか?」
そんな二人のやり取りに呆然とする小鳥だった。
それはそうだろう。
あんな印象的な出逢いをした男が、目の前で自分の友人のお弁当を届けてるんだから。
しかも、高校生には見えないと思ってた人が、同じ高校の制服を着ているわけだし。
「唯子・・・」
そっと唯子に視線を向ければ、恭也と那美を交互に見つめ、なんとも言い難い表情をしている。
小鳥は、何かを決意するように、キュッと唇を結び立ち上がり声をかけた。
「あの、高町さん、その節はありがとうございました」
「あれ?小鳥ちゃん、恭也さんと知り合いなの?」
「うん、ちょっとね」
「相川さんの怪我はその後、大事無いですか?」
「はい、お蔭様で。お医者さんも初期治療が完璧だったから、しばらくすれば治るとおっしゃっていたそうです」
「それは、良かった」
そう言って、踵を返そうとする恭也に、何か言いたそうに、けれど何も言えずに居る唯子。
「あの、恭也さん、良ければ一緒にご飯を食べませんか?」
その小鳥の一言に、クラスメートや唯子がびっくりしたような顔をした。
日ごろの小鳥は大人しく、口数もそう多くない印象だった。
実際、唯子も小鳥の引っ込み思案と人見知りは、付き合いが長い分だけより熟知している。
その小鳥が、ほぼ初対面の、それも男性に話しかけ、自分から積極的に食事に誘っているのだから珍しいことこの上ない。
事実、小鳥自身も自分の足が震えているのを自覚している。
自分の行動に驚いているのは誰よりも小鳥自身なのだ。
でも、唯子を見てると何かせずには居られなかった。
小さなころからずっと一緒に居た唯子。
人見知りで引っ込み思案の自分をいつも守ってくれてた優しい唯子、叶わぬ想いに共に涙した唯子、その唯子のために何かしてあげたかったのだ。
「せっかくのお誘いですが、先約がありますから遠慮させてもらいます」
そんな小鳥の提案に恭也は、丁寧だがそっけなく答えた。
「・・・そうですか」
ただ、言葉こそそっけなかったが、声は優しく、眼差しは優しかった。
「ありがとう」
小鳥にだけ聞こえるように、小さく呟かれた唯子の言葉が嬉しかった。
そんな小鳥の感慨にはお構いなく
「那美ちゃん、あの人とどういう関係なの?」
と、昼休み一杯再び質問攻めに会う那美と、そのせいで詳しく恭也との関係を聞けなかった唯子と小鳥だった。
一方、小鳥の誘いを断った恭也は、再び校庭に出てきていた。
「・・・居ないな」
お目当ての人物を見つけることはできずにいた。
耳を澄ましても鈴の音は聞こえない。
「当てが外れたな」
誰に聞かすでもなく呟いた自分の言葉が、思った以上に落胆の色を湛えていたことに、かるい衝撃を受け苦笑する。
「あら、恭也。当てが外れたって、誰に会いに来たのよ」
後ろから、突然肩を叩かれた。
「いきなり後ろから声をかけるな、忍。相変わらず悪趣味だな」
「もしかして、千堂さん・・・とか?」
悪戯っぽく微笑む忍、明らかに恭也をからかって楽しんでいるのがわかる。
「は?何で千堂さんが突然出てくるんだ?」
恭也の心底意外そうなきょとんとした顔に苦笑する。
「週が明けたら、急に恭也と千堂さんがぎこちなくなった気がしたから、何かあったのかな?って」
「・・・ああ、なるほど。お前は相変わらずするどいな」
「やっぱり何かあったんだ」
「いや、彼女の俺への評価が警戒から険悪になっただけの話だ」
楽しそうに恭也ににじり寄ってくる忍に対し、恭也は無表情に言い放った。
「険悪に、ねぇ・・・」
朝教室に入ってきた恭也を見る視線は『怯え』、授業中も無意識に恭也を見ては、恭也と視線が合うのを避けるように逸らしていた。
結局、忍の見たところ瞳が恭也を見つめる視線は、険悪というよりも、嫉視にちかいと思っている。
多分、恭也に惹かれる気持ちと、それに対するわだかまりみたいな物があるのだろう。
『まあ、そんな複雑な女心、恭也に理解できるはずもないか』
そう、そんな瞳本人ですら自覚できない、複雑な心境など、恭也じゃなくてもそうそう理解できるものではない。
しかし、忍にはそれができた。
それは、自分の真一郎への感情と、ひどく似通っているから。
さくらを裏切ること、未来を変えること、過去を改竄する事への畏れ。
それでも抑えることができない、むしろ膨らんでいく慕情。
「別に嫌われてるって事はないんじゃないかな、何があったかわからないけど、きっと彼女も混乱してるのよ」
自分と重ねて、すこし目を伏せるようにして、ゆっくりと言葉を選ぶ忍。
そんな忍の言葉に、否定とも肯定とも取れない曖昧な呟きを残して恭也はその場を離れていった。
「忍は、昨日の、そして一昨日の彼女を見てないからな・・・」
彼女の聡明そうな美しい瞳が、驚きに開かれ自分を映す。
長い睫毛と艶やかな唇は小刻みに震え、自らを糾弾する言葉が紡がれた夜。
まして、その翌日、見られたあの現場は・・・
空は、いつの間にか冬の暗く重たい灰色に変わっていた。
魔術師の戯言
大変お待たせしました。
第16話です。
ようやく、唯子が恭也とからめました。
足掛け何年たったかなぁ。
終わり方でずっと悩んでましたがもう決めました。
タブン賛否両論どころかほとんど否で終わりそうですが仕方ないです。