第3話《第0司祭》
濡れた身体を拭こうともせずに、シエルは教会に戻って来た。
「ご苦労さんね、シエル」
シエルからの報告書を受け取りながらナルバレックはシエルの肩に手を伸ばす。
「あらあら…ひどい怪我じゃないの。
もうあなたは不死の身体じゃないんだから気を付けないとね…」
シエルの大嫌いな笑みを浮かべてナルバレックはシエルの傷を抉る…。
ナルバレックは自分の細く美しい指先に付いたシエルの血をペロリと舐めると、再びその指先をシエルの傷口に埋めた…。
傷を抉られているにも関わらず、シエルは声一つ発てずに俯いたままだ。
雨を含み水を滴らせている髪から水滴がこぼれ、床に水跡を作る。
「あら、シエル。泣いているのかしら…?」
ナルバレックは楽しそうにシエルの顔を覗き込もうとする。
それを嫌がる様に顔を逸らすシエルにナルバレックは笑いながら更に言葉を投げかける。
「あなたが泣いているなんてそんなわけないわよね…」
シエルが、俯いて必死で隠しているその涙に気が付いていながら更にそれを揶揄するような言葉を続けた。
一瞬シエルは目の前のこの自分の上司である女を殺してやりたく思った。
ナルバレックを睨む苛烈な瞳は、先ほどの硬質な蒼い瞳とは違う色をしていた。
その瞳はどこまでも碧かった。
猛々しい、恐らくは憎悪と言う名のエネルギーが滲み出る様に苛烈な熱を込めた瞳であった。
そんなシエルの瞳を気にした様子もなく、相変らず楽しそうにシエルに対して言葉を続ける。
「あなたは人狼どころかその婚約者にすら無表情にその剣を振るったんですもの。
あなたは本当に優秀な司祭だわ…。
みんながみんな、あなたの様であったなら神もお喜びになるのでしょうけど…」
その言葉にシエルは吐き気を催すほどに嫌悪を覚えた。
しかし心とは裏はらに、無表情な瞳で虚空を見つめながらただ
「ありがとうございます」
と、熱の全く篭っていない言葉を呟いた。
その様子をナルバレックは最高に楽しそうな、ひどく陰湿な表情で見つめた。
女の目から見ても十分に美しい顔に、ミロのビーナスの失われた腕はこれなのでは?
と思われるほどに細く白く美しい指をあてる。
「ホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホオホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホオホホホホホオホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホオホホホホホホホホホホオホホホホホホホオホホホホオホホホホホホホホオホホオホホホホホホホホホホホオホホオホホオホホホオホホホホホホホホホホホホホオホホホホホホホホホホオホホホホホホホホホ………………………………」
そして狂った様に笑い声を上げた。
あくまで音楽的で美しい声から奏でられるその響きが、シエルには死神や悪魔の踊るワルツのように聞こえた。
「失礼します…」
そう言って出ていこうとするシエルにナルバレックは笑ったまま呟いた。
「そんなに彼が大切なのね?第7司祭さん。
心を殺して人狼とその婚約者を殺してまでも彼を取り戻したいんだ…」
その言葉を聞いたシエルは、ナルバレックの胸座を掴みその首を締めながら叫んだ。
「そうよ!!!彼が大切だわ!!!!
彼を伴なって帰ってきて、突然あなたを始めとする教会の人間が彼を無理矢理連れ去って…。
私が素直に仕事に励めば彼に危害を加えない…
そう言うから異端と見れば全て虐殺してきた!!!!!
あれからもうすぐ3年よ!!?もう良いでしょ!!!!!?彼を返して!!!!!!!」
今まで溜まりに溜まってきた想い。
言われるままに仕事をこなし、それと同時に自分自身でも志貴の居場所を探し続けてきた。
しかし、ほんの僅かな痕跡すら見つからずに居た。
『素直に仕事に励めば彼に危害を加えない』
その一言を信じて、己の心を殺してでも仕事に励むしか志貴を救う術はなかった。
いつのまにかシエルの頬に涙が流れていた。
志貴を想い幾度となく流してきた涙…
ナルバレックは涼しい顔で、自分の首を締め続けるシエルの腕を振り解くと
シエルの頬を流れる涙を掬う様に舐め始めた。
唖然とするシエルにナルバレックは珍しく真剣な顔を見せた。
「気に入らないわね…あの志貴って子…。
あなたに涙を流させるほどに愛されてるなんて…」
そう呟いた後に一瞬だけ見せたその表情は、異端の者に埋葬機関最強の司祭と恐れられるシエルですら恐怖で動けなくなるほどに陰惨な物であった。
「気に…いらないわ…殺して…しまおうかしら?」
その言葉を聞いても未だ動けないシエルに、先ほどの陰惨な表情は錯覚だったのかと想わせるほどに清々しい表情で
「嘘よ。直死の魔眼についても調べ終わったしあなたもよくがんばったから明日、
志貴君に会せてあげる…」
そう言って、未だに動けないシエルを置いてナルバレックは執務室から出ていった。
しばらくして、志貴が帰ってくると言う喜びと、言いようのない不安に苛まれながら歩くシエルの肩が不意に叩かれた。
振り返った先に居たのは、第五司祭にして死徒27祖の一人であるメロム・ソロモンであった。
「どうかしたのかね?”弓”と呼ばれる君が生き消沈しているとは…」
「何でもないわ」
正直シエルはこの第五司祭も好きではない。
そのために対応もまた冷たくなる。
しかし、そんなことは全く気にせずにメロム・ソロモンは話しを続けていた。
「そうかね。
それよりも聞いたかね?また噂の第0司祭が出たらしい…」
「第0司祭が…?」
第0司祭。
ここ1年の間に超強力な異端を何体も狩っている謎の司祭。
教会の中でも異端を排除するために設立された言わば教会の異端とも言える埋葬機関。
その埋葬機関にあって最も異端な存在、それが第0司祭である。
何と言っても、埋葬機関の構成メンバーである司祭達ですらただの一度も見た事がないのだ。
しかし、噂では実力は他の司祭達にも引けを取らない…
むしろその実力は最強と言われる第7司祭すら凌駕するとも言われていた。
「第0司祭ですか…。何者なんでしょうかね?」
そう言い残し、シエルは静かに自室に歩き始めた…。
―――――――――――――翌日
「あれ…全然数が足りませんね…」
シエルは回りを見まわして不思議に思った。
埋葬機関はナルバレックを含めて8人のはず。
なのに今は周りに自分を含めても四人しか居ない。
「何でも、極東に3人ほど行ってるらしいよ…」
メロム・ソロモンが教えてくれた。
「三人も…!!!?」
シエルの記憶にもない事であった。
キリスト教圏でない極東の島国に三人もの司祭を派遣するとは…
死徒が日本にいると言う話は少なくともシエルは聞いていない。
『第一相手が死徒27祖であっても3人も派遣することは極めて稀なのに…』
「ま…まさか…」
シエルの脳裏にキリスト教圏内でもない極東に三人もの司祭を送る理由が一つだけ思い付いた…。
いや、その一つ以外は考えられないと言っても過言ではない…。
『彼女を殲滅するためならば…確かに有り得るかもしれない…』
シエルの脳裏に、あの見るものを威圧する洋館に住む髪の長い少女が浮かんだ…。
『むしろ、彼女が相手ではそれでも少ない…
私か、メロム・ソロモン、ナルバレック以外の人間では何人がかりでも太刀打ちできない気すらする…』
カツ、カツ、カツ
ゆっくりとナルバレックが自分に歩み寄ってくる。
しかし、シエルの瞳は釘付けになっていた。
ナルバレックの後に佇む男の姿に…。
それはシエルが良く知っている人物だった…
死ぬ事だけを求めていたシエルに、暖かい感情を目覚めさせてくれた人…。
そうその名は……………………………
「志貴…君…」
溢れる涙を拭おうともせずにシエルはその男性の名前を呼んだ…。
彼はきっと笑ってこう言ってくれる…
春の陽光のように優しくて、夏の日差しのように眩しくて、秋の月夜のように静かで、冬の空気のような透明感を湛えた笑顔で…
「シエル先輩」
と…。
しかし、その甘い幻想は脆くも崩れ去った。
目の前に居る志貴は何かが違う…
「貴女が第7司祭のシエルさんか…。よろしく…」
そう言ってシエルの手を握る志貴の笑顔は力強くてでも少し傲慢で…
シエルの知っている『遠野志貴』の笑顔ではなかった…。
「じゃあ、確かに志貴君は返したわよ…」
困惑するシエルの様子を心底楽しそうに眺めていたナルバレックが、そう言って立ち去ろうとした。
その肩をシエルは掴むと強引に、無理矢理自分のほうに顔を向けさせた。
「あんた志貴君に何をしたのよ!!!」
ナルバレックは寒気がするほどに美しい笑顔でシエルの耳元に囁いた。
「別に…何も…。
ただ彼の本来有るべき姿を目覚めさせただけよ…」
「ホンライ・・・アルベキ・・・スガタ・・・?」
「そう、貴女もいつか志貴君に言ったわよね?
彼の苗字を選択するのは彼自身と…」
シエルは何も言わない…。いや言えなかった。
「でも、それはおかしいと思わない?
彼は本来は七夜志貴…よ。遠野志貴なんて、ただ後から付与された偽の記憶に過ぎないわ…」
「ま…まさか…。ナルバレック!!あんた!!!!!!」
「そう、彼は今や七夜志貴よ…。
私達と同じく異端を狩るべくして生まれた…ね…」
「…第0司祭…」
苦々しくシエルが呟くその言葉をナルバレックは嬉しそうに肯定して見せた。
「そう…。彼はそうとも呼ばれているわね…。
0と言う数字は特別よね?
0と言う数字の概念はあっても存在はない。
数字の中でも異端と言って良い数字だわ…。
彼、七夜志貴もまたそう言う存在でしょう?
確かに存在していながら、遠野志貴によってその存在は無に追いやられた…。
そして、今この埋葬機関の中でも、クリスチャンでもない彼はまさに異端を狩るためだけに存在する、異端の中の異端…。
まさに第0司祭の名が相応しいでしょう…」
力無くその場に座りこんだシエルにそう言い残してナルバレックは去っていった…。
そして、そのナルバレックの後に従う『第0司祭』の姿をシエルは力無く見つめる事しかできなかった。