《月明かりの影》
夕日が世界をオレンジ色に染め始めた。
湖面に反射する陽光が、恭也をまるで炎を纏ったかの様に染め上げていく。
ヒラリ、ヒラリと桜の花が舞い散る桃源郷の中で恭也はただ、じっと佇んでいた。
『このまま…何処かへ…消えてしまいそう…』
そんな儚さを感じさせる恭也に、偲はそっと声をかけた。
「恭也君…見つけた」
「えっ?」
その声に恭也は夢から覚めたかのようにビックリしながら振り向いた。
「もう帰ろうよ…みんなも恭也君を捜してるよ」
今の恭也の明らかに不審な行動には敢えて触れずに、偲は柔らかく微笑んでそれだけを伝えた。
「帰る?もうそんな時間だったのか…」
そんな事を呟きながら、恭也は偲と並んで歩き始めた。
偲の恭也も一言も喋らずに、桜のアーチの下を歩いていた。
その晩、恭也は海鳴公園のベンチに座ったまま空を眺めていた。
「思えば俺達は、さっきの彼女の様に…
真直ぐにお互いを見つめて気持を伝え合うなんて事は無かったな…しのぶ…」
その言葉に恭也の傍らの少女がこくんと頷いた。
銀色の月が真円を描き、二人を優しく照らしてくれた。
そんな優しい光りに包まれながら恭也は、今日の帰りの偲の言葉を反芻する。
「恭也君…。今日は楽しかった…」
その言葉とは裏腹に、彼女の顔は明かに沈んでいた。
「・・・・・・・・」
何と返事をすれば良いのか?皆目見当もつかない恭也は無言でペダルを漕ぐ足に力を込めた。
キィ・・・キィ・・・キィ・・・
双方無言で居るせいだろうか?
ペダルの音がいやに耳についた。
『今度油をささなければな…』
恭也がそんな場違いな事を考えていると、偲がポツリと
「海鳴公園に寄りたい…」
とまるで独り言の様に呟いた。
一瞬判断に迷った物の、恭也は何故かその偲の一言に逆らいがたい決意の匂いを感じていた。
そして、恭也は偲と共に海鳴公園に訪れた。
もはや日は完全に沈んでおり、月は分厚い雲に遮られている夜の公園。
頼りない街灯の灯りの中で、二人は何を話すでも無くゆっくりと歩いていた。
無口な性質の恭也はともかく、偲は何かを話そうとするのだが、結局は何も言葉にはならずにいた。
そんな気まずい沈黙の中で、まるで闇の中でそこにだけスポットライトが当てられたかのように、街灯の明かりの下、
ベンチがポッカリと自己主張をしていた。
「恭也君…座ろうか…」
そう言って偲が腰を下ろしたベンチは…
『……よりにもよって『あの時の』ベンチか…』
恭也の片頬が僅かに歪められた。
それは、まるで恭也には似つかわしくない皮肉な笑みであった。
「どうしたの?恭也君…」
余程凄惨な顔をしていたのだろう…偲が心配そうに瞳を向ける。
「いや、何でも無いんだ…」
『何でも無い?そんなはずが無いのに…』
偲のその言葉を、音にはしなかった。
だからそのメッセージを伝えたのは瞳。
恭也に向かって真直ぐに向けられた一点の曇りもない瞳。
偲の鳶色の美しい瞳は『海路偲』と言う人間の言葉にならない沢山の思いを雄弁に語っている…。
鈍感な恭也にも偲の自分に対する想いが伝わるほどにその瞳は恭也を捕らえて離さない…。
「私…ずっと恭也君を見てきた…」
意を決したように偲はゆっくりと、瞳とともに言葉を用いて想いを口にし始めた。
「恭也君は私と初めて会ったのは、赤星君に連れられて剣道部の人と学食で食事をした時だと思ってるでしょ?
でもね…違うんだ。
私と恭也君が会ったのはそれよりもずっと前なの…」
会話の間も、偲は恭也から視線を離さずに真直ぐ見つづけていた。
「あれは、海鳴の入試の時だった。
私の横に座っていた恭也君は、私から何かを話し掛けても、ほとんど話にものってくれなくて…。
私、最初は『ああ、なんて無愛想で、すかした人なんだろう』って思ってたのよ」
偲は、その時の恭也の様子でも想い出したのか、ほんの一瞬だけ表情を柔らかく緩めた。
しかし、それはまさに一瞬のことですぐに元の真剣な表情に顔を引き締めた。
「でもね、それが間違いである事はすぐにわかったの。
私が緊張のあまり机をひっくり返してしまった時、恭也君だけが机や荷物を直すのを手伝ってくれた。
他の人は、テストが始まってからどたばたとしている私を、白い目で睨む事をする人はいてもわざわざ自分のテスト
時間をロスしてまで、手を貸してくれる人なんていなかったから…」
一瞬の沈黙…
カサカサ・・・
風にでも揺らされたのだろうか、桜の花びらが舞い降りてきた。
街灯の光りに照らされて、ヒラリヒラリと舞う花びらは何処か季節外れの雪を連想させた。
「そして、何とか試験を解こうと思ったら私は重大な事に気がついたの…。
机を倒した時の衝撃のせいかな?鉛筆も消しゴムも何処かに飛んで行ってしまったり芯が折れてしまっていたの。
私は、多分パニックに陥っていたのね。
なんだか泣きたくすらなってしまっていたの…。
そんな私に恭也君は、自分の予備の鉛筆と消しゴムをそっと渡してくれた。
そして、安心させるようにわずかに微笑んでくれたのよ…。
その時に私は気がついたの…
この人は不器用で無愛想だけど本当は凄く優しい人なんだって…」
『覚えてないの?』
恭也に向けられる彼女の瞳は、恭也にそう問いかけていた。
そして、恭也の言葉を待たなくても偲にはわかった。
恭也がその事を覚えていない事を…。
瞳の動きが原因で…
そんな些細な事で、何となく恭也の事がわかるほどに偲は恭也の事だけを見つめ続けていた。
印象的な出会いが原因で始めは何となく恭也の事を目でおっていた。
そんな自分の行動が、どうやら恋である事に気がつくのに時間はかからなかった。
それから三年以上の間…
偲の瞳は恭也だけが映っていた…
それなのに…
「そっか…、覚えてないんだ…恭也君」
寂しそうに微笑んだ彼女の目尻には少しだけ涙が溜まっていた。
空気までも凍りついた様に無音の世界がそこにはあった。
「恭也君…好きな人が居るでしょ?」
偲の突然の質問に恭也は驚きながらも、偲の瞳を真直ぐに見つめ返したまま静かに頷いた。
恭也の瞳は、夜の湖の用に静かでそして深い色をしていた。
「私もね…ずっと恭也君が好きだったんだよ…」
振られた事を確認するために偲は明確に思いを口にした。
何度も伝えようとした気持ち
言葉に託して…
文に託して…
チョコに託して…
何度も伝えようとした気持ち。
胸の中でずっと暖め続けたその言葉を、偲は振られるために口にした皮肉に、胸に穴が開けられるような哀しみを受けた。
そしてまた恭也の言葉も予想道理の物だった。
「すまない、俺は偲の気持ちには答えられない…」
「そっか…」
偲は明るく微笑んで見せた。
「じゃあ、仕方ないな…。ステキな人をまた捜さなきゃ…」
軽い口調でおどけて見せる。
「私、こう見えても実は結構男の子に人気があるんだから…」
笑顔を見せる偲の瞳からは大粒の涙が止めど無く流れていた…。
「恭也君も…何か言ってよ…私一人で…馬鹿みたいじゃない…」
とうとう堪えきれなくなった嗚咽が、その言葉を途切れ途切れのもにしていく。
雲の合間から、顔を見せた月が偲を銀色に染め上げて…
月下で泣いている偲が、もう一人の女性と重なった。
そんな偲に向かって恭也はハンカチを手渡してただ一言だけ呟いた。
「……すまない……そして、ありがとう」
偲は最後に微笑んで静かに一人家路についた。
「恭也君、変わらないね…。あの時から…」
今も偲の胸にしまってある、あの日の恭也の姿
そこには…
深く澄んだ漆黒の美しい瞳と、頼もしさを感じさせる優しい微笑みがあった。
雲が開け、月がその姿を完全に取り戻していた……。
そして、一人ベンチに佇む恭也にも…
その傍にいる人にも…
等しく月光の光を与えていた。